第2総軍 (日本軍)
表示
第2総軍 | |
---|---|
創設 | 1945年(昭和20年)4月8日 |
廃止 | 1945年(昭和20年) |
所属政体 | 大日本帝国 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
部隊編制単位 | 総軍 |
所在地 | 日本本土 |
通称号/略称 | 西方 |
担当地域 |
鈴鹿山系以西の 本州・四国・九州 |
最終位置 | 広島県 広島市 |
戦歴 | 第二次世界大戦 |
第2総軍(だいにそうぐん)は、第二次世界大戦末期に、本土決戦を目的に設立された大日本帝国陸軍の総軍の一つである。
概要
[編集]絶対国防圏の要石とされたサイパンを失いレイテ戦に失敗した大本営は、昭和20年(1945年)1月20日に本土(北海道、本州、四国、沖縄を除く九州)の維持を作戦目的とした帝国陸海軍作戦計画大綱を決定、本土における軍の編制を根本的に改めた。
それまでの防衛総司令部を廃し、日本列島を鈴鹿山系を以って東西に二分し、東部を第1総軍が担当、西部を第2総軍が担当、第2総軍は中部軍管区及び西部軍管区の防衛を主任務として、連合国軍上陸が予想される南九州を重点に編成され、連合国軍の沖縄上陸の6日後の4月7日には司令部が広島市(二葉の里[1])の旧騎兵第5連隊本部に置かれた。
連合国軍の主力アメリカ軍は、昭和20年(1945年)8月6日に広島市へ原子爆弾を投下した。これにより第2総軍の総司令部以下全組織は壊滅的な被害を受けた。総軍の中枢部が崩壊し諸部隊も全滅に近い状態となり、命令系統不全となる。このため爆心地から4kmと比較的離れた宇品にあった陸軍船舶司令部所属の暁部隊が救護・救援活動の主力となった。
全壊全焼エリアの第2総軍司令部は、午後2時に独断で広島市に戒厳令を布告した[2]。そして在宇品の陸軍船舶司令官佐伯文郎中将を広島警備担任司令官に任命した。以降、第2総軍は原爆負傷者の救護・救援活動を任務とする。だが、8月15日に日本軍は無条件降伏し救援業務を広島県と広島市に引き継いだ。
基本情報
[編集]第2総軍の人事
[編集]司令官
[編集]- 畑俊六元帥:昭和20年(1945年)4月7日 - 10月15日
参謀長
[編集]参謀副長
[編集]- 真田穣一郎少将:昭和20年(1945年)4月6日 - 9月10日
- 寺垣忠雄中将:昭和20年(1945年)9月21日 - 10月15日
- 三好康之少将:昭和20年(1945年)9月21日 - 10月15日(第15方面軍参謀副長と中部軍管区参謀副長を兼ねた)
高級参謀
[編集]- 井本熊男大佐:昭和20年(1945年)4月6日 - 終戦
終戦時
[編集]- 司令官:畑俊六元帥
- 参謀長:岡崎清三郎中将
- 参謀副長:真田穣一郎少将
- 高級参謀:井本熊男大佐
- 高級副官:益森芳男大佐
- 兵器部長:森田広中将
- 経理部長:森武夫主計中将
- 軍医部長:田中巌軍医中将
- 獣医部長:山根定吉獣医少将
- 法務部長:大田原清美法務少将
終戦時の隷下部隊
[編集]
|
第16方面軍(九州方面担当)
|
|
脚注
[編集]- ^ 広島駅北西約500m
- ^ 戒厳令の記載は広島県発行『広島県戦災史』1988年、また広島平和記念資料館・企画展(防空・救援体制に関する年表)の13:25の項など。なお戒厳令は大日本帝国憲法第14条「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」で規定されており、軍が独断で戒厳令布告するのは違法であるという意見があるが、戒厳令(明治15年太政官布告第36号)第6条では「軍団長師団長旅団長鎮台営所要塞司令官警備隊司令官若クハ分遣隊長或ハ艦隊司令長官艦隊司令官鎮守府長官若クハ特命司令官ハ戒厳ヲ宣告シ得ルノ権アル司令官トス」とあるので天皇直隷の司令官として統帥に参画する第2総軍司令官にも当然戒厳宣告の権限はある。また戒厳宣告の条件「戦時ニ際シ鎮台営所要塞海軍港鎮守府海軍造船所等速カニ合囲若クハ攻撃ヲ受クル時」(同第4条)は被爆時の広島の状況に合致する。(これを「軍事戒厳」という。なお日露戦争講和時の日比谷焼打事件や関東大震災、二・二六事件などに際して宣告されたのは法的にはこの「戒厳令」によるものではなく、緊急勅令によって戒厳令の規定を一部準用した行政措置であり「行政戒厳」と呼ばれる)ただ被爆下の混乱で一次資料が無いこともあり、この戒厳令布告を疑問視する意見もある。