岡崎清三郎
岡崎 清三郎 | |
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生誕 |
1893年3月17日![]() |
死没 |
1979年5月27日(86歳没)![]() |
所属組織 |
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軍歴 | 1914 - 1945 |
最終階級 |
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岡崎 清三郎(おかざき せいざぶろう、1893年(明治26年)3月17日[1][2] - 1979年(昭和54年)5月27日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴[編集]
島根県出身[1]。松江市[3]で岡崎竜次郎の三男として生まれる[1]。松江中学校を経て、1914年5月、陸軍士官学校(26期)を卒業し[2]、同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第63連隊付となる[1][4]。1921年11月、陸軍大学校(33期)を卒業した[1][2][5]。
参謀本部付勤務、参謀本部員などを経て、1925年5月、皇族(秩父宮雍仁親王)付武官となり、秩父宮の外遊(オックスフォード大学)に随行した[1][3]。参謀本部員(編制班)、ジュネーヴ出張、陸軍省整備局課員(統制課)、兼参謀本部員、上原勇作元帥副官(近衛歩兵第3連隊付、歩兵第59連隊付)、留守第4師団参謀長などを経て、日中戦争に支那駐屯歩兵第2連隊長として出動[1][2][5]。陸軍歩兵学校研究部主事などを経て、1939年8月、陸軍少将に進級[1][5]。
歩兵学校幹事、教育総監部第1部長、同部総務部長、参謀本部付を歴任し、太平洋戦争に第16軍参謀長として出征し、ジャワ島攻略などに従事[1][2][5]。1942年12月、陸軍中将に昇進[1][2][5]。第2師団長、軍需官(近畿軍需管理部長)などを経て、本土決戦に備え第2総軍参謀長として広島に駐在していたが、1945年8月の原爆投下により重傷を負い終戦を迎えた[1][2][5]。
その後、西部復員司令部総務部長を勤め、1946年1月に復員[1]。1948年4月から二年間、戦犯容疑で拘留された[1]。1949年12月、オランダ法廷で無罪判決を受けた[1]。
著書[編集]
- 『天国から地獄へ』共栄書房、1977年。
伝記[編集]
- 岡崎清編著『ある陸軍軍人の小さな昭和史』私家版、1990年。