秋草俊
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秋草 俊 | |
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終戦直後、ソ連によって撮影 | |
生誕 |
1894年4月8日 日本・栃木県足利市 |
死没 |
1949年3月22日(54歳没) ソビエト連邦・モスクワ州ウラジーミル |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1914年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
出身校 | 東京外国語学校 |
秋草 俊(あきくさ しゅん、1894年〈明治27年〉4月6日 - 1949年〈昭和24年〉3月22日)は、昭和期の日本の陸軍軍人。対ソ諜報を専門とする情報将校として陸軍中野学校初代校長、星機関長、関東軍情報部長を務めた。陸士26期。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]1894年(明治27年)4月6日、秋草直右衛門の4男として栃木県足利市に生まれ、幼くして東京の同族・秋草晃の養子となる。1914年(大正3年)、陸軍士官学校26期卒業。陸軍依託学生として東京外国語学校に学び、後にハルピンに留学。参謀本部付、関東軍特務機関に務めるなどして、1933年(昭和8年)、ハルピン特務機関の補佐官となり、諜報活動で活躍し対ソ諜報の第一人者となる。
1936年(昭和11年)9月、 阿南惟幾兵務局長によって「科学的防諜機関」設立が発案されると準備委員の一人として立ち上げに関わり、1938年(昭和13年)4月に後方勤務要員養成所(陸軍中野学校)として設立されると初代校長に就任した[1]。敗戦後は逃亡を勧める部下の進言を断りソ連軍に投降、連行され抑留を経験[1]。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[2]。1949年(昭和24年)3月22日、モスクワ州ウラジーミルのウラジーミル監獄で死去した。享年56(満54歳没)。墓地は、ウラジーミル監獄に隣接する市民墓地で、加藤泊治郎中将と共に葬られている。
年譜
[編集]- 1914年(大正3年)
- 1918年(大正7年)7月 任歩兵中尉
- 1924年(大正13年)3月 任歩兵大尉
- 1926年(大正15年)4月 東京外国語学校入学
- 1927年(昭和2年)3月 東京外国語学校(露語)修了・ハルピン留学
- 1928年(昭和3年)4月 参謀本部付勤務
- 1932年(昭和7年)4月 任歩兵少佐・陸士附勤務
- 1933年(昭和8年)3月 ハルピン特務機関補佐官
- 1936年(昭和11年)
- 1938年(昭和13年)8月 後方勤務要員養成所長
- 1939年(昭和14年)3月9日 任歩兵大佐
- 1940年(昭和15年)3月20日 在ドイツ星機関長(満州国在ドイツ公使館参事官兼ワルシャワ総領事)
- 1942年(昭和17年)12月1日 第4国境守備隊長
- 1943年(昭和18年)8月1日 任少将
- 1945年(昭和20年)2月1日 関東軍情報部長(ハルピン特務機関長)
- 1949年(昭和24年)3月22日 死去
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 斎藤充功『日本のスパイ王: 陸軍中野学校の創設者・秋草俊少将の真実』(学研プラス、2016年)
- 山本武利『陸軍中野学校』(筑摩選書、2017年)
- 丸谷元人「日本のスパイ・マスター 秋草俊」『世界から恐れられた7人の日本人 上巻』ダイレクト出版、2021年12月。ISBN 978-4866221106。