磐城皇子

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磐城皇子
続柄 雄略天皇皇子(第一皇子?)

出生 不明
死去 雄略天皇23年(479年)以降/清寧天皇2年(481年)11月以前
子女 難波小野王?
父親 雄略天皇
母親 吉備稚媛
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磐城皇子(いわき の みこ、生年不詳 - 雄略天皇23年(479年)以降、清寧天皇2年(481年)11月以前)は、『日本書紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。雄略天皇と吉備上道臣氏出身の稚媛との間の子で、星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)の同父兄。異父兄に吉備上道兄君吉備上道弟君がいる。

記録[編集]

弟の清寧天皇を雄略天皇の第三子とする日本書紀の記述から、第一皇子の可能性がある。

磐城皇子の名前は『古事記』には見えず、『日本書紀』巻第十四[1]、巻第十五[2]のみに現れる。

具体的な記述は、雄略天皇23年8月(479年)の雄略天皇崩御直後、弟の星川皇子が叛乱を起こそうとした際に、

「長子(このかみ=兄)磐城皇子、母夫人(いろはのみめ=生みの母である夫人)の其の幼子に教(をし)ふる語(こと)を聴きて曰く、「皇太子(ひつぎのみこ)、是(これ)我が弟(おとと)なりと雖(いへど)も、安(いづく)にぞ欺くべけむ。不可為(しかはすべからず)」とのたまふ[3]。 (訳:長子の磐城皇子は母夫人が星川皇子に教えることばを聞いて、「皇太子はわが弟であるけれども、欺くことができようか。してはならぬことです」といわれた)[4]

とあるのみである。

この記述から、控え目で慎重な性格と、なおかつ分限を守っていたことが窺われる。なお、

是の時に、吉備稚媛・磐城皇子の異父兄(ことかぞえのあに)兄君、城丘前来目(き の おかさき の くめ) 名を闕(も)らせり。 星川皇子に随ひて、燔殺(やきころ)されぬ。

とあり、皇子の名前がないところから見て、この時の叛乱には参加しなかった可能性が高い。上記の言葉が残されている時点で、乱には卷き込まれなかったことが分かる。

ただ、清寧天皇2年11月(481年)に市辺押磐皇子(いちへ の おしは の みこ)の息子である二王が発見され、子のない清寧天皇が驚歎後、後継ぎができたと喜ぶのだが、この時に磐城皇子もしくはその子孫が生きていれば、このようなことは起こりえなかった、と推定される(あるいは、磐城皇子が皇位につけない深い事情があったのかも知れない)。

年齢[編集]

上記にあげたように、磐城皇子の弟が白髪皇子(清寧天皇)である。

清寧天皇は西暦に直すと484年に崩御しており、「時に年若干(みとしそくばく)」[5]とあるが、『神皇正統記』によると39歳、『水鏡』などに41歳、『皇代記』などに42歳とあり、星川皇子の反乱時には35歳前後だったことになる。

磐城皇子の年齢も、それより若干上であったとみることができる。

なお、兄君、弟君はそれよりも年上だったことになり、弟君は雄略天皇7年(463年)には25歳前後、兄君は星川皇子の叛乱当時は40歳前後ということになる。

子孫[編集]

『古事記』には「石木王(いわきのおおきみ)」が顕宗天皇の皇后、難波王の父親としてあげられている。同様の記述は、『書紀』巻第十五にもあり、難波小野王(なにわのおののみこ)の父は、允恭天皇の曾孫で、「磐城王」(いわきのみこ)の孫でもある丘稚子(おかのわくご)の娘だという[6]。「石木王」=「磐城王」=「磐城皇子」とみて、間違いはないであろう。

顕宗天皇が難波小野王を皇后として迎えた理由は、雄略天皇の血を女系継承で伝えようとしたためだと思われる。しかし、難波小野皇后は皇子を儲けることができず、皇太子時代の仁賢天皇に無礼を働いた、という理由で顕宗天皇崩御後(489年)に自死し[7]、磐城皇子、稚媛の皇室での血統はここで途絶えてしまった。

荷田春満を輩出した伏見稲荷大社社家の荷田氏は磐城皇子の末裔であるという説がある。

脚注[編集]

  1. ^ 『日本書紀』雄略天皇元年3月条
  2. ^ 『日本書紀』清寧天皇即位前紀条
  3. ^ 『日本書紀』(三)p94、岩波文庫、1995年
  4. ^ 『日本書紀』(上)全現代語訳p314 - p315、宇治谷孟、講談社学術文庫
  5. ^ 『日本書紀』清寧天皇5年1月16日条
  6. ^ 『日本書紀』顕宗天皇元年1月条
  7. ^ 『日本書紀』仁賢天皇2年9月条

参考文献[編集]

関連項目[編集]