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石田重家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石田重家
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 [一説に]天正12年(1584年)か天正14年(1586年)か天正16年(1588年)
死没 貞享3年3月8日1686年4月30日[1]
改名 重家→宗享(法名)
別名 通称:隼人正
諡号 済院宗享大禅師
戒名 宗享
墓所 妙心寺壽聖院
官位 隼人正
主君 豊臣秀頼
氏族 石田氏
父母 父:石田三成、母:皎月院
兄弟 重家重成深長坊清幽宗信
荘厳院津軽信枚室)、女(山田隼人正室)、女(岡重政室)
不明
[異説に]直重[2][3]
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石田 重家(いしだ しげいえ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての人物。石田三成の嫡男。関ヶ原の戦いの後に出家し、臨済宗の僧としての名は済院宗享

略歴

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関ヶ原前

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石田三成の嫡男として誕生。生年は不詳だが、渡辺世祐は関ヶ原の戦いのときに12、13歳としていて[4][6]、であるならば生年は天正16年(1588年)前後で、谷徹也は『兼見卿記』の天正14年(1586年)2月5日条に石田佐吉(三成)の女房が3月に出産予定であるため安産祈願の依頼を受けたという記事があるのに注目し、これが重家のことならば、生年は天正14年であった可能性が高いとする[7]。ただしどちらも弟の可能性があり、白川亨は弟との混同を主張していて[8]、自著に生年の想定を記してないが、享年103としているので天正12年(1584年)となる[9]

慶長4年(1599年)閏3月、父・三成が加藤清正七将に襲撃されて引退を余儀なくされた後に、「やがて奉行として取り立てる」との約定により[8]、代わって大坂城豊臣秀頼の下に出仕し、徳川家康からもかわいがられたという[11]

慶長5年(1600年)、重家は後見役の大谷吉継と共に、上杉討伐に出陣する徳川家康の下へ参陣するように、父に命じられていた[12]

この後、関ヶ原の役が勃発したために果たせずに、毛利輝元増田長盛長束正家らの嫡子※[13]と同じく豊臣家に対する人質として大坂城に留め置かれたとする話と[12]、嫡子・重家は会津征伐に同行するために佐和山城に帰って兵備を整えていたが、戦役勃発により一族郎党とそのまま佐和山城の守備についたという話[8]の2説がある。

関ヶ原後

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前述の2説により、関ヶ原における西軍大敗の知らせが届くと、9月17または19日夜に乳母やその父津山甚内に託されて、密かに大坂城の脱出[14]とするものと佐和山城から落城前に脱出したとするもの[8]の細部が異なる話があるが、場所以外の部分は大筋で同じである。

その後、京都妙心寺の塔頭壽聖院に入って、住職の伯蒲慧稜(伯蒲恵稜とも)によって剃髪して仏門に入れられた[4]。伯蒲は法号として宗享の名を与えた。済院は字[4]

伯蒲は、京都所司代奥平信昌を通じて助命を嘆願し、家康は本多正信と協議して、重家がまだ10代前半と若かったことからこれを許した。元和9年(1623年)、宗享は仏戒を修めて、雲屋祖泰(雲屋宗春)より寿聖院を三世として受け継ぐが、そもそも寿聖院は三成が実父正継のために伯蒲を招いて開基した寺である[15]

また、のちに春日局の側近として大奥で仕えることになる祖心尼に禅を教授したともいわれている。

貞享3年(1686年)閏3月8日に死去[1]享年は99か101になるが、生年には前述のほかにも異説が多くあり、正確な年齢はよくわからない。

また重家の直系子孫を名乗る石田秀雄によると3代目直重の代に越後高田松平家に仕官したがその次の代からは庄屋になり現在まで男系で繋いでいるというが[2]、それを示す史料は戦争で燃えたという[16]

異説

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異説としては大坂城より脱して、津軽国に行ったというものや[17]、妙心寺ではなく高野山に逃れたというものがいくつかあり、『 豊内記』では高野山に逃れた後に殺されたとしている[18]。また別に、晩年の重家は仏門から還俗して和泉国岸和田藩の藩主・岡部宣勝の庇護を受けながら、岸和田で死去したという説もある[1]

脚注

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  1. ^ a b c 渡邊 1929, p.336
  2. ^ a b 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情”. PRESIDENT Online. プレジデント社. 2022年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月7日閲覧。
  3. ^ 関ヶ原の戦い後の出家したが、すでに孕んだ妻が直重を産んだという異説がある。しかし若年によって助命されたのであるから、すでに妻がいる年齢であったとするのは矛盾する。直重には三成の庶子とする説もある。
  4. ^ a b c 渡邊 1929, p. 335.
  5. ^ 白川 1997, pp. 85–86.
  6. ^ 白川は『翁草』を出典とする渡辺の説を否定している[5]
  7. ^ 谷 2018, p. 14.
  8. ^ a b c d 白川 1997, p. 86.
  9. ^ 白川 1997, p. 96.
  10. ^ 谷 2018, p. 60.
  11. ^ 『看羊録』による[10]
  12. ^ a b 渡邊 1929, p. 334.
  13. ^ 渡辺は毛利秀就増田盛次長束助信らが人質として大坂城にいたように書いているが、全員そのような立場にはいなかった。
  14. ^ 渡邊 1929, p. 335, 338.
  15. ^ 渡邊 1929, pp. 335–336.
  16. ^ 武将の末裔が語る“関ヶ原の戦い”裏事情”. PRESIDENT Online. プレジデント社. 2022年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月7日閲覧。
  17. ^ 渡邊 1929, p. 338.
  18. ^ 渡邊 1929, p. 337.

参考文献

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  • 渡邊世祐国立国会図書館デジタルコレクション その子孫」『稿本石田三成』雄山閣、1929年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1899420/217 国立国会図書館デジタルコレクション 
  • 谷徹也『石田三成』戎光祥出版〈織豊大名の研究7〉、2018年。ISBN 9784864032773 
  • 白川亨「三成の嫡男・隼人正重家の生涯」『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年、84-96頁。ISBN 9784404025500 
先代
雲屋祖泰
妙心寺寿聖院住職
第3代
次代
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