白石照山
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白石 照山(しらいし しょうざん、文化12年8月10日(1815年9月12日) - 1883年10月3日)は、江戸時代後期の儒学者、漢学者。通称は常人、照山または素山と号した。名は牧。字は伯羊。
経歴
[編集]照山は中津藩の下士久保田武右衛門の長男で、藩校・進脩館にて野本白巌に漢学を学び、24歳で藩の督学となった才人である。その年の1838年(天保9年)には江戸に上り、亀井昭陽、古賀侗庵に師事し、昌平黌に6ヶ年学ぶ。6年間もの間在籍した昌平黌での成績は抜群に優秀で、幕府の詩文係を務めた。1843年(天保14年)に帰藩し、北門通りに私塾・晩香堂を開設。広瀬淡窓や頼山陽といった同時代の儒学者を押しのけて独自の学風を確立、特に陽明学や亀井南冥の影響が強かったといわれる。ところが、中津藩が城の御固番を下士に命じたことに反発して藩から追放される。しかし、「御固番事件」で中津藩を追われた白石照山は、旧知であった月桂寺の住職、徹伝和尚をたよって、近隣の豊後国臼杵藩(稲葉藩)で儒者として厚遇され、藩校・学古館の学頭として登用される。1862年(文久2年)には臼杵藩を辞して豊前四日市郷校の教授となり、1869年(明治2年)には中津藩から上士として迎えられ藩校・進脩館の教授に復帰する。1871年(明治4年)に藩校の廃止により、私塾・晩香堂を再開。1883年(明治16年)に69歳で病没した。晩年には『戦国策』の注釈本を自らの代表作にしようと計画していた。
特筆
[編集]- 門人には、福澤諭吉、朝吹英二、荘田平五郎、増田宋太郎といった初期の慶應義塾の中核を担う人物の他、のちに平田篤胤没後の門人となった神道学者で、国学と水戸学を融合させ、明治初年には新政府の神道政策を担当した渡辺鉄太郎(重石丸、号は鶯栖園隠士)などといった傑物を指導している。
- 福澤諭吉との交流は晩年まで続き、諭吉の適々斎塾(適塾)への遊学を金銭面で支援したり、福沢の思想形成の特徴である、佐藤一斎や朱子学、水戸学から一定の距離を置いて国家独立の思想を志向したことに対する大きな影響を与えている。これが佐久間象山と福澤諭吉の決定的な違いであるともいわれている。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 臼杵藩藩学における子弟教育の様相
- 岳真也『福沢諭吉』作品社〈人物叢書〉、2004年8月。ISBN 4878936835。
- 『三田學會雑誌第77巻』 慶應義塾経濟學會 1984年
- 白石照山と学古館