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田畑氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
  1. 薩摩田畑氏 - 奄美大島を発祥とする江戸時代武家。本稿の上部を参照。
  2. 陸奥田畑氏 - 陸奥国東部の武家。本稿の下部を参照。

田畑氏
(薩摩田畑氏)
丸 に 出一つ引きまる に で ひとつひき
左三つ巴ひだり みつどもえ
丸 に 五三の桐まる に ごさんのきり
本姓 第二尚氏庶流(※ 河内源氏為朝流説あり)
家祖 笠利為春
種別 武家
出身地 琉球王国
主な根拠地 薩摩国
鹿児島県龍郷町 ほか
凡例 / Category:日本の氏族

鹿児島の田畑(たばた)氏は、江戸時代島津家家臣である。

 ※以下、月日の表示がないものは西暦のみ記載

かつて奄美群島が琉球国の一部であった時代、王命により奄美の一部地域の統治を任された笠利(かさり)氏が江戸期に田畑氏に改姓する[1]

1609年の島津氏の琉球侵攻の後、奄美は薩摩の蔵入地(直轄領)となり支配を受けるが、その統制下において領域支配に関与し続け、1726年に奄美初の郷士格に取り立てられ、「田畑」姓を島津家当主より与えられる。

砂糖増産のための新田開発等が主な理由とされる。

1785年に主命によって(りゅう)氏に改姓(明治に田畑氏に復姓)するが、一族は奄美における為政者として家格を保ち続け、明治維新を主導した薩摩の主財源であった砂糖生産に大きく貢献することとなる(奄美の砂糖生産と田畑氏の関わりについては、大江修造著作の『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』に詳しい)[2]

笠利氏とは

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伊賀倉俊貞校正鹿児島外史』等の文献によれば、笠利氏は源為朝頼朝義経の叔父)の嫡男・為頼(母は阿多忠景の娘とも)の直系子孫とされているが、琉球国正史である『中山世鑑』に登場する舜天とつなぐ系図も存在するなど、その実体は不明である。

笠利氏家譜』等によると、本祖の笠利為春(かさり ためはる/1482年- 1542年)は、琉球の第二尚氏初代尚円王の父・尚稷(しょうしょく)の孫であるとされ、王命により1504年に奄美大島に渡り、名瀬間切首里大屋職となる。その後中国に渡り、1542年に亡くなったとされる。

第2代の当主・為充(ためみつ)は、瀬戸内東間切首里大屋職に、第3代・為明(ためあき)は、笠利間切の首里大屋職に琉球王から任命され、その際の任命書が現存している。

為充への任命書は「志よ里の御み事 / せんとうちひがまぎりの / 志よりの大やこ / 一人ひ可せとに / たまわり申す」、為明へのそれには「志よ里の御み事 / かさりのまぎりの大やこ / 一人 きせの大やこに / たまわり申す / 志よりきせの大やこの主へまいる / 陸慶二年(1568年)八月廿四日」と和文で記されている( 志よ里とは首里、琉球国王のこと)[3]

第5代・為転(ためてん)の時代、1609年の薩摩の琉球侵攻を迎え撃つも大敗北を喫し、その蔵入地(直轄領)となり支配下に組み込まれる。しかし笠利氏は家督を奪われることはなく従来の地位が保全されるが、1623年に島津久元他4名連署による『大島置目之条々』が通達され、奄美の支配についての取り決めに従うことになる。

一方、為季(ためすえ、7・9代当主)が大坂の陣に参戦し、為成(ためなり、8代当主)が小姓として参勤交代に供奉するなど(江戸期初代の当主・島津忠恒の時代)、奄美を本拠地としながら島津氏支配下で特別な扱いを受けていたことが窺える。

その後も本領への参勤や一族の一定期間の薩摩在住が義務付けられるなどの服属を強いられるが、第11代・為寿(ためじゅ)が1692年に江戸期第3代の島津綱貴を表敬訪問した直後に家老・新納久行(にいな ひさゆき)が送付した丁重な礼状(元禄5年(1692年)10月5日付)が現存しており、その文面からも笠利氏が特別な地位を有していたことが確認できる[4]

ちなみに残存する系図等によると、本祖の為春以降、通字には「為」を使い続け、前述した源為朝とのつながりが深く意識されたことが想像される。また、400年以上も前から存在する田畑家の墓石の家紋には、清和源氏系の武家に多く見られる意匠「丸に一文字(横の棒線が丸枠を左右に突き出す)」が使用されている。

笠利家系譜 (『笠利氏家譜』等による)

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  1. 笠利為春(1504年、王命により奄美大島赴任)
  2. 笠利為充 
  3. 笠利為明
  4. 笠利為吉
  5. 笠利為転(薩摩藩の琉球侵攻を迎え撃った当主)
  6. (未詳)
  7. 笠利為季(大坂冬・夏の陣に琉兵を従えて参戦)
  8. 笠利為成(島津家久の小姓として参勤交代に供奉)
  9. 笠利為季
  10. (未詳)
  11. 笠利為寿
  12. 田畑為辰(1726年、郷士格となり田畑に改姓)
  13. (未詳)
  14. (未詳)
  15. (未詳)
  16. (未詳)
  17. 龍為勝
  18. 龍為善(弟・佐民為行が西郷の奄美蟄居時の相続人代理)
  19. 龍為寧 …以下、省略。

田畑・龍氏として

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薩摩の統治下も奄美の領域支配に深く関与し続け、1726年に薩摩への貢献(砂糖増産のための新田開発)を主な理由として、第12代・佐文仁為辰(さぶんに ためたつ/1678-1784)が、奄美で初めて代々外城衆中格(後の郷士格)に取り立てられ、薩摩当主より「田畑」姓を与えられる。

その時点において奄美で公式に名字を名乗れたのは田畑氏のみであった。『和家文書』によると、1783年にさらに1家、1818年から1850年の間に40家が郷士格に取り立てられているが、その内36家は砂糖献上、他の4家は唐通事(通訳業)によるものであり、新田開発を理由とするのは1726年の田畑氏のみである[5]

1785年に、本領との差別化を目的とする政策により一字姓への改姓が強いられ(第8代・島津重豪の時代)、田畑氏の本拠地であった龍郷(たつごう)の一字をとって龍(りゅう)に改姓する。

ちなみに、西郷隆盛が奄美に蟄居していた時期に暮らしていたのが龍郷町であり、龍家に預けられ、その庇護を受ける。島妻となる愛加那は田畑氏(龍家)の分家筋の娘である[6]

奄美の本家筋等は明治になってから田畑氏に復姓するが、それ以前に本領に移住していた分家筋他は、龍への改姓後も田畑氏のままであったと考えられている。 

薩摩藩士の田畑氏

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1726年以降、本領に移住・定住した分家筋等は田畑姓を名字とし続け、本家筋が龍性に改めた以降も名字を改めなかったとされているが、その詳細は不明であり、異なる経緯での田畑姓の発生も考えられる。ただ、田畑氏が薩摩当主によるいわゆる賜姓であることに鑑みれば、江戸時代において田畑姓が無秩序に存在していたとは考えられない。

家紋

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陸奥田畑氏

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田畑氏
(陸奥国)
家紋
丸 に 出一つ引きまる に で ひとつひき
琴柱ことじ
本姓 車持朝臣庶流
家祖 田畑 定持
種別 武家
出身地 下毛野
主な根拠地 陸奥国菊多郡南東部
凡例 / Category:日本の氏族

陸奥田畑氏(むつ たばたし)は、日本武家鎌倉時代から室町時代陸奥国菊多郡東部本貫とした氏族。 下毛野氏の一族とされるが、不明点が多い。

田畑姓の分布

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田畑姓は主に都市部に集中して見られるものの、ほぼ全国に分布している。

国土地理院によれば九州地方では鹿児島県鹿児島市で97軒、次いで枕崎市で92軒、鹿屋市で52軒、熊本県荒尾市で31軒。

九州地方以東で田畑姓が集中して見られるのは、近畿地方で兵庫県と大阪府の全域、京都府長岡京市から京都府京都市左京区、関東地方で神奈川県東部・東京都全域、千葉県最西部である。

最も軒数が多い都道府県は長野県上伊那郡で230軒、三重県志摩市で119軒、富山県と秋田県で96軒、最北端では北海道の亀田半島南部に54軒。

少ない所では、四国地方全体で14軒。最も少ないのは和歌山県有田郡、愛知県高浜市、西尾市、田原市、静岡県伊豆の国市、熱海市、千葉県館山市で、それぞれ1軒づつ残っている。

脚注

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  1. ^ 『奄美史の一断面 : 奄美笠利氏の系譜』千秋社、1978年11月。 
  2. ^ 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』アスキー・メディアワークス、2010年3月10日。 
  3. ^ 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』アスキー・メディアワークス、2010年3月10日、35 - 36頁。 
  4. ^ 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』アスキー・メディアワークス、2010年3月10日、137 - 139頁。 
  5. ^ 『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり』アスキー・メディアワークス、2010年3月10日、45 - 47頁。 
  6. ^ 『西郷のアンゴ(島妻)ー愛加那ー』みずうみ書房、1990年。 

参考文献

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  • 伊加倉俊貞『校正鹿児島外史』清弘堂、1885年9月、NCID BA34177729
  • 笠利水也『奄美史の一断面 : 奄美笠利氏の系譜』千秋社、1978年11月、BN 13715915
  • 大江修造『明治維新のカギは奄美の砂糖にあり : 薩摩藩隠された金脈』 アスキー・メディアワークス、2010年3月、ISBN 9784048684101
  • 潮田聡木原三郎 『西郷のアンゴ(島妻) : 愛加那』 みずうみ書房、1990年3月、ISBN 483801547X
  • 南日本新聞社鹿児島大百科事典編纂室編 『鹿児島大百科事典』、1981年9月、NCID BN01086630
  • 皆村武一『奄美近代経済社会論』 晃洋書房、1988年
  • 奄美新聞編奄美の先駆者 田畑佐分仁』上下、2009年1月1日、1月4日
  • 田畑勇弘『奄美郷土研究会報』第3、4、5号 1962年、1963年
  • 昇曙夢『大奄美史』復刻版、南方新社、2009年