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王陸一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王陸一
『最新支那要人伝』(1941年)
プロフィール
出生: 1897年光緒23年)[1]
死去: 1943年民国32年)10月20日
中華民国の旗 中華民国
出身地: 清の旗 陝西省西安府三原県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 王陸一
簡体字 王陆一
拼音 Wáng Lùyī
ラテン字 Wang Lu-i
和名表記: おう りくいち
発音転記: ワン ルーイー
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王 陸一(おう りくいち)は中華民国の政治家。中国国民党の元老・于右任の側近である。旧名は肇巽。別名は天士

事績

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幼年時代に、父に従って四川省に入った。1912年民国元年)、西北大学法科に入学する。1915年(民国4年)、袁世凱討伐計画に参加したが、事前に事が漏れ、甘粛に逃亡した。1918年(民国7年)、孫文(孫中山)の護法軍政府に呼応して挙兵したが、失敗に終わり、渭北に逃亡する。その後、于右任配下となり、陝西靖国軍秘書兼外交処処長となる。しばらくして于と共に上海に赴き、私立上海大学と中国国民党上海執行部で職に就いた。1925年(民国14年)、ソビエト連邦に留学し、モスクワ中山大学で政治経済学を学んでいる。翌年冬、帰国した。[2][3][4]

1927年(民国16年)、陝西国民革命軍総司令部弁公室主任に任ぜられ、続いて武漢に赴き国民政府参事となる。翌年、国民党中央執行委員会秘書処書記長、国民党第2期5中全会秘書長をつとめた。1930年(民国19年)、省立安徽大学文学院院長に任命された。翌1931年(民国20年)11月、国民党第4期候補中央執行委員兼宣伝委員会委員となり、後に民衆運動指導委員会副主任委員も兼任している。[2][3][4]

同年、中央政治学校計政学院主任と監察院秘書長(監察院長は于右任)に任命された。なおこの時期の王は中蘇文化協会理事もつとめ、孫科・于右任が推進したソ連との修好に従事した。1935年(民国24年)11月、国民党第5期中央執行委員に選出され、民衆訓練部副部長も兼任した。1938年春、軍事委員会戦区軍風紀第2巡察団委員専任となる。1941年(民国30年)、山西・陝西監察使に任ぜられた。1943年(民国32年)10月20日、病没。享年47。[2][3][4]

著作

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  • 『長毋相忘詞』

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  1. ^ 劉主編(2005)、175頁と東亜問題調査会編(1941)、20頁による。徐主編(2007)、140頁は1896年としている。
  2. ^ a b c 徐主編(2007)、140頁。
  3. ^ a b c 劉主編(2005)、175頁。
  4. ^ a b c 東亜問題調査会編(1941)、20頁。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。