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== 生涯 ==
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[[山内上杉氏]]の家臣・[[高田憲頼]]の次男。[[天文 (元号)|天文]]16年([[1547年]])8月の[[小田井原の戦い|信濃小田井原の戦い]]で父と兄・右衛門佐が戦死し、家督を継ぐ<ref name=":0">{{Cite book|和書|title=武田氏家臣団人名辞典|year=2015|publisher=東京堂出版|author=黒田基樹|chapter=高田繁頼}}</ref>。同21年([[1552年]])に主君・[[上杉憲政]]が[[後北条氏]]に関東を追われると、繁頼は後北条氏に従ったとみられる。[[永禄]]3年([[1560年]])に上杉憲政を擁した[[上杉謙信|長尾景虎(上杉謙信)]]の関東侵攻が起きると、謙信に従い、[[長野氏|箕輪長野氏]]の指揮下に入る。『[[関東幕注文]]』によると、この時点では「'''小次郎'''」を称している<ref name=":0" />。翌4年([[1561年]])11月に[[武田信玄]]の西上野侵攻を受けると、[[武田氏]]の従属下に入る。武田氏配下においては、同じ甘楽郡の国衆で[[国峯城]]主・[[小幡信真|小幡信実]]の同心とされたと考えられている<ref>{{Cite book|和書|title=戦国大名と外様国衆 増補改訂|year=2015|publisher=戎光祥出版|author=黒田基樹|chapter=第一章 小幡氏の研究}}</ref>。同10年([[1567年]])8月7日付で提出された『[[下之郷起請文]]』では「'''大和守'''」の名乗りが確認され、取次の[[原昌胤]]に単独で提出している<ref name=":0" />。同12年([[1569年]])6月に武田氏から離反した[[小幡信尚]]を追討し、その功を信玄から評されている。同年10月の武田軍による小田原城攻めでは先鋒を務めた。


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[[元亀]]3年([[1572年]])12月の[[三方ヶ原の戦い|遠江三方ヶ原の戦い]]に参陣し、負傷した。その傷が元で翌年に死去。享年48。家督は嫡男の[[高田信頼|信頼]]が継いだ<ref name=":0" />。
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [[柴辻俊六]]、[[平山優 (歴史学者)|平山優]]、[[黒田基樹]]、[[丸島和洋]]『武田氏家臣団人名辞典』[[東京堂出版]] 、2015年
* [[柴辻俊六]]、[[平山優 (歴史学者)|平山優]]、[[黒田基樹]]、[[丸島和洋]]『武田氏家臣団人名辞典』[[東京堂出版]] 、2015年
* 黒田基樹『戦国大名と外様国衆 増補改訂』戎光祥出版、2015年
* 黒田基樹『戦国大名と外様国衆 増補改訂』戎光祥出版、2015年


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2021年11月26日 (金) 14:20時点における版

 
高田 繁頼
生誕 大永6年(1526年
死没 元亀4年4月5日1573年5月6日
別名 小次郎、大和守
主君 上杉憲政北条氏康上杉謙信武田信玄
氏族 高田氏
父母 父:高田憲頼
兄弟 右衛門佐、繁頼
安中重繁の娘
信頼
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高田 繁頼(たかだ しげより)は、戦国時代武将上野国甘楽郡国衆。高田城(現・群馬県富岡市妙義町下高田)城主。

生涯

山内上杉氏の家臣・高田憲頼の次男。天文16年(1547年)8月の信濃小田井原の戦いで父と兄・右衛門佐が戦死し、家督を継ぐ[1]。同21年(1552年)に主君・上杉憲政後北条氏に関東を追われると、繁頼は後北条氏に従ったとみられる。永禄3年(1560年)に上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻が起きると、謙信に従い、箕輪長野氏の指揮下に入る。『関東幕注文』によると、この時点では「小次郎」を称している[1]。翌4年(1561年)11月に武田信玄の西上野侵攻を受けると、武田氏の従属下に入る。武田氏配下においては、同じ甘楽郡の国衆で国峯城主・小幡信実の同心とされたと考えられている[2]。同10年(1567年)8月7日付で提出された『下之郷起請文』では「大和守」の名乗りが確認され、取次の原昌胤に単独で提出している[1]。同12年(1569年)6月に武田氏から離反した小幡信尚を追討し、その功を信玄から評されている。同年10月の武田軍による小田原城攻めでは先鋒を務めた。

元亀3年(1572年)12月の遠江三方ヶ原の戦いに参陣し、負傷した。その傷が元で翌年に死去。享年48。家督は嫡男の信頼が継いだ[1]

脚注

  1. ^ a b c d 黒田基樹「高田繁頼」『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年。 
  2. ^ 黒田基樹「第一章 小幡氏の研究」『戦国大名と外様国衆 増補改訂』戎光祥出版、2015年。 

参考文献