「章徳竇皇后」の版間の差分

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'''竇皇后'''(とうこうごう、? - [[97年]])は、[[後漢]]の[[章帝 (漢)|章帝]]の[[皇后]]。[[右扶風|扶風]]平陵県(現在の[[陝西省]][[咸陽市]][[秦都区]])の人。
'''竇皇后'''(とうこうごう、? - [[97年]])は、[[後漢]]の[[章帝 (漢)|章帝]]の[[皇后]]。[[右扶風|扶風]]平陵県(現在の[[陝西省]][[咸陽市]][[秦都区]])の人。[[諡]]は徳で、諡号としては夫の諡を重ねて'''章徳皇后'''(しょうとくこうごう)。兄は[[竇憲]]


== 生涯 ==
== 生涯 ==
と沘陽公主(父は東海王[[劉彊]])とのの長女として生まれた。幼い頃に人相見が竇氏を見て「大変高貴な身分に昇るだろう」と言った。美貌の持ち主で、書道に優れていたため、親戚たちは驚いたという。
と沘陽公主(父は東海王[[劉彊]])とのあいだの長女として生まれた。幼い頃に人相見が竇氏を見て「大変高貴な身分に昇るだろう」と言った。美貌の持ち主で、書道に優れていたため、親戚たちは驚いたという。


[[建初 (漢)|建初]]2年([[77年]])、妹とともに宮中に参内した。章帝と[[明徳馬皇后 |馬太后]]から好印象を持たれたため、章帝の後宮に入った。翌年3月に皇后に立てられた。妹も貴人となった。
[[建初 (漢)|建初]]2年([[77年]])、妹とともに宮中に参内した。章帝と[[明徳馬皇后|馬太后]]から好印象を持たれたため、章帝の後宮に入った。翌年3月に皇后に立てられた。妹も貴人となった。


初め、章帝から大変な寵愛を受けたが皇子を産むことはできなかった。逆に宋貴人は皇太子の[[劉慶 (清河王)|劉慶]]を産んだ。梁貴人は[[劉肇]]を産んだ。竇皇后はこのことを嫉妬して宋貴人や梁貴人を讒言した。宋貴人は自殺し、その子である劉慶も廃嫡されて清河王となった。また梁貴人は失意のうちに死去した。竇皇后は劉肇を自分の子として養育した。その後、竇皇后は後宮の者たちに恐れられた一方で、いっそう寵愛された。
初め、章帝から大変な寵愛を受けたが皇子を産むことはできなかった。逆に宋貴人は皇太子の[[劉慶 (清河王)|劉慶]]を産んだ。梁貴人は[[劉肇]]を産んだ。竇皇后はこのことを嫉妬して宋貴人や梁貴人を讒言した。宋貴人は自殺し、その子である劉慶も廃嫡されて清河王となった。また梁貴人は失意のうちに死去した。竇皇后は劉肇を自分の子として養育した。その後、竇皇后は後宮の者たちに恐れられた一方で、いっそう寵愛された。
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[[永元 (漢)|永元]]4年([[92年]])、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。和帝は政治の実権を取り戻すことに成功した。
[[永元 (漢)|永元]]4年([[92年]])、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。和帝は政治の実権を取り戻すことに成功した。


永元9年(97年)に死去。梁貴人の姉である梁嫕は上書して梁貴人の無実を訴えた。また大臣たちは「[[呂雉|呂后]]のように尊号を奪われるべきである」と進言したが、拒否された。'''章徳皇后'''とされた。章帝の敬陵に合葬された。
永元9年(97年)に死去。梁貴人の姉である梁嫕は上書して梁貴人の無実を訴えた。また大臣たちは「[[呂雉|呂后]]のように尊号を奪われるべきである」と進言したが、拒否された。章帝の敬陵に合葬された。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『[[後漢書]]』皇后紀上
*[[:zh:s:後漢書/卷10上|後漢書/卷10上 (中国語版ウィキソース)]]


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2021年7月30日 (金) 04:24時点における版

竇皇后
後漢の皇后
在位 建初3年3月2日 - 章和2年2月30日
78年4月3日 - 88年4月9日

別称 章徳皇后
死去 永元9年8月14日
97年10月8日
埋葬 敬陵
配偶者 章帝
氏族 扶風竇氏
父親 竇勛
母親 沘陽公主
兄弟 竇憲
竇篤
竇景
竇瑰
竇貴人
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竇皇后(とうこうごう、? - 97年)は、後漢章帝皇后扶風平陵県(現在の陝西省咸陽市秦都区)の人。は徳で、諡号としては夫の諡を重ねて章徳皇后(しょうとくこうごう)。兄は竇憲

生涯

竇勛と沘陽公主(父は東海王劉彊)とのあいだの長女として生まれた。幼い頃に人相見が竇氏を見て「大変高貴な身分に昇るだろう」と言った。美貌の持ち主で、書道に優れていたため、親戚たちは驚いたという。

建初2年(77年)、妹とともに宮中に参内した。章帝と馬太后から好印象を持たれたため、章帝の後宮に入った。翌年3月に皇后に立てられた。妹も貴人となった。

初め、章帝から大変な寵愛を受けたが皇子を産むことはできなかった。逆に宋貴人は皇太子の劉慶を産んだ。梁貴人は劉肇を産んだ。竇皇后はこのことを嫉妬して宋貴人や梁貴人を讒言した。宋貴人は自殺し、その子である劉慶も廃嫡されて清河王となった。また梁貴人は失意のうちに死去した。竇皇后は劉肇を自分の子として養育した。その後、竇皇后は後宮の者たちに恐れられた一方で、いっそう寵愛された。

章和2年(88年)に章帝が死去し、劉肇は即位した。皇太后として臨朝し、兄である竇憲らと政権を握った。一族は権勢を誇った。和帝は成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。

永元4年(92年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。和帝は政治の実権を取り戻すことに成功した。

永元9年(97年)に死去。梁貴人の姉である梁嫕は上書して梁貴人の無実を訴えた。また大臣たちは「呂后のように尊号を奪われるべきである」と進言したが、拒否された。章帝の敬陵に合葬された。

参考文献