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[[1569年]]頃、兄信長の命で北[[伊勢国|伊勢]]を支配していた[[長野工藤氏|長野氏]]の養子として入った。後に伊勢上野城を居城とした。兄信長に従って各地を転戦した。清廉な人物で、信長からの信任は厚く、一族の重鎮として厚遇されたうえ、信長の長男[[織田信忠]]の補佐を任されたという。また、信長が[[近江国|近江]]の[[浅井長政]]の居城[[小谷城]]を包囲させて長政を自殺させたとき、浅井の血が絶えるのは忍びないということから妹・[[お市]]を保護し長政とお市の娘[[淀殿|茶々]]、[[常高院|初]]、[[崇源院|於江与]]を保護して育てた。
[[1569年]]頃、兄信長の命で北[[伊勢国|伊勢]]を支配していた[[長野工藤氏|長野氏]]の養子として入った。後に伊勢上野城を居城とした。兄信長に従って各地を転戦した。清廉な人物で、信長からの信任は厚く、一族の重鎮として厚遇されたうえ、信長の長男[[織田信忠]]の補佐を任されたという。また、信長が[[近江国|近江]]の[[浅井長政]]の居城[[小谷城]]を包囲させて長政を自殺させたとき、浅井の血が絶えるのは忍びないということから妹・[[お市]]を保護し長政とお市の娘[[淀殿|茶々]]、[[常高院|初]]、[[崇源院|於江与]]を保護して育てた。


[[1582年]]、兄信長は[[本能寺の変]]で[[明智光秀]]に襲われて自殺、その後は[[豊臣秀吉]]に従った。伊勢[[津城]]を居城として、「津侍従」などと呼ばれた。一説には15万石程度の領地を持っていたという。[[1583年]]には甥の[[織田信孝]]らと対立し、[[柴田勝家]]や[[滝川一益]]を攻めている。[[1590年]]、[[小田原征伐]]のときに[[北条氏政]]、[[北条氏直]]父子の助命を秀吉に嘆願したため、秀吉の怒りを買った。そして[[1594年]]9月、秀吉により改易された。理由は検地の結果、かなりの石高増加となり、その割には役儀を疎かにしているというものである。
[[1582年]]、兄信長は[[本能寺の変]]で[[明智光秀]]に襲われて自殺、その後は[[豊臣秀吉]]に従った。伊勢[[津城]]を居城として、「津侍従」などと呼ばれた。一説には15万石程度の領地を持っていたという。[[1583年]]には甥の[[織田信孝]]らと対立し、[[柴田勝家]]や[[滝川一益]]を攻めている。[[1590年]]、[[小田原征伐]]のときに[[北条氏政]]、[[北条氏直]]父子の助命を秀吉に嘆願したため、秀吉の怒りを買った。そして[[1594年]]9月、秀吉により改易された。理由は検地の結果、かなりの石高増加となり、その割には役儀を疎かにしているというものである。改易にともなって、剃髪して犬老斎と号し、京都の慈雲院に暮らしたという


その後、[[近江国|近江]]に2万石を与えられた。改易にともなっ、剃髪して老犬斎と号し、秀吉の側近として仕えたという。[[1598年]]、丹波柏原3万6千石を与えられる。
その後、[[近江国|近江]]に2万石を与えられて、秀吉の側近になったという。[[1598年]]6月、丹波柏原3万6千石を与えられる。


[[1600年]]、[[関ヶ原の戦い]]に際しては西軍に属したものの、[[徳川家康]]は信包に罪を問わず、改易しなかった。その後も信包は秀吉の嫡男・[[豊臣秀頼]]を補佐し、1614年7月17日、[[大坂の役|大坂冬の陣]]直前に大坂城内で吐血して急死。[[享年]]72。毒殺の噂が流れたが定かではない。
[[1600年]]、[[関ヶ原の戦い]]に際しては西軍に属し、田辺城攻撃などに兵を出した。しかし、戦後、[[徳川家康]]は信包に罪を問わず、改易しなかった。その後も信包は秀吉の嫡男・[[豊臣秀頼]]を補佐し、1614年7月17日、[[大坂の役|大坂冬の陣]]直前に大坂城内で吐血して急死。[[享年]]72。毒殺の噂が流れたが定かではない。


== 人物と系譜 ==
== 人物と系譜 ==

2006年10月24日 (火) 00:26時点における版

織田 信包おだ のぶかね天文12年(1543年) - 慶長19年7月17日1614年8月22日))は織田信秀の5男、織田信長の弟。初名は信良、信兼。通称は三十郎、老犬斎。官位は従三位左中将・上野介。

生涯

1569年頃、兄信長の命で北伊勢を支配していた長野氏の養子として入った。後に伊勢上野城を居城とした。兄信長に従って各地を転戦した。清廉な人物で、信長からの信任は厚く、一族の重鎮として厚遇されたうえ、信長の長男織田信忠の補佐を任されたという。また、信長が近江浅井長政の居城小谷城を包囲させて長政を自殺させたとき、浅井の血が絶えるのは忍びないということから妹・お市を保護し長政とお市の娘茶々於江与を保護して育てた。

1582年、兄信長は本能寺の変明智光秀に襲われて自殺、その後は豊臣秀吉に従った。伊勢津城を居城として、「津侍従」などと呼ばれた。一説には15万石程度の領地を持っていたという。1583年には甥の織田信孝らと対立し、柴田勝家滝川一益を攻めている。1590年小田原征伐のときに北条氏政北条氏直父子の助命を秀吉に嘆願したため、秀吉の怒りを買った。そして1594年9月、秀吉により改易された。理由は検地の結果、かなりの石高増加となり、その割には役儀を疎かにしているというものである。改易にともなって、剃髪して犬老斎と号し、京都の慈雲院に暮らしたという。

その後、近江に2万石を与えられて、秀吉の側近になったという。1598年6月、丹波柏原3万6千石を与えられる。

1600年関ヶ原の戦いに際しては西軍に属し、田辺城攻撃などに兵を出した。しかし、戦後、徳川家康は信包に罪を問わず、改易しなかった。その後も信包は秀吉の嫡男・豊臣秀頼を補佐し、1614年7月17日、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死。享年72。毒殺の噂が流れたが定かではない。

人物と系譜

偉大なる兄・信長がいたために信包の影は極めて薄い。しかし武将としての器量は織田家の中では見るべきものがあり、決して無能な人物ではなかった。信長の信頼度からそれが窺えよう。しかし兄と比較して野望に乏しく、清廉潔白すぎたために、兄亡き後の天下取りには参加しなかったのであろうと思われる。

信包は、信雄に庇護されていた信長生母の土田御前を信雄改易後引き取っている。このことから、彼の生母は土田御前で、信長、信勝、秀孝らと同腹の子ではないかとも思われる。信長の弟の中で、信包が常に優遇されていた理由の一つかもしれない。

子女は長男信重、2男寿圭(安土総見寺住職)、3男信則(丹波柏原藩主)、4男信当(旗本)、長女姫路殿(豊臣秀吉側室)。

先代
なし
柏原藩初代藩主
1598~1614
次代
織田信則