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'''クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル'''(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、[[1842年]][[3月28日]] - [[1906年]][[7月5日]])は、[[プロイセン王国]]及び[[ドイツ帝国]]の軍人。最終階級は[[少将]]。[[明治]]前期に[[日本]]に兵学教官として赴任し、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の軍制のプロイセン化の基礎を築いた。
'''クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル'''(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、[[1842年]][[3月28日]] - [[1906年]][[7月5日]])は、[[プロイセン王国]]及び[[ドイツ帝国]]の軍人。最終階級は[[少将]]。[[明治時代]]前期に[[日本]]に兵学教官として赴任し、[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]の軍制のプロイセン化の基礎を築いた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[ケルン]]に生まれる。実家のメッケル家はビール醸造家であった。メッケル家はドイツ南西部[[ラインラント=プファルツ州]][[ビットブルク=プリュム郡]][[ビットブルク・ラント]]の山間の村[[メッケル]]が発祥の地で、当地にやって来た[[ローマ帝国]]の小部隊の隊長が始祖であったとい。1867年にプロイセン陸軍大学校を卒業した。[[普仏戦争]]にも参加し、鉄十字勲章も受賞した。 
[[ケルン]]に生まれる。実家のメッケル家はビール醸造家であった。メッケル家はドイツ南西部[[ラインラント=プファルツ州]][[ビットブルク=プリュム郡]][[ビットブルク・ラント]]の山間の村[[メッケル]]が発祥の地で、当地にやって来た[[ローマ帝国]]の小部隊の隊長が始祖であったと伝えられて。1867年にプロイセン陸軍大学校を卒業した。[[普仏戦争]]にも参加し、鉄十字勲章も受賞した。 


陸軍の近代化を推し進めていた日本政府は[[ドイツ]]に兵学教官派遣を要請した。日本からの度重なる派遣要請に対し、当時[[フランス]]が日本に教官を派遣していたことから、ドイツはこれに応じる。ドイツ側は参謀総長の[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|ベルンハルト・フォン・モルトケ]](大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校([[:de:Kriegsakademie|de]])の兵学教官のメッケル少佐<ref>プロイセン陸軍では参謀科は歩兵科・工兵科・砲兵科と同じく独立した兵科であった。</ref>の派遣を決定し、メッケルは[[1885年]]3月に来日した<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/メッケル-141468 |title = 世界大百科事典 第2版の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-08 }}</ref>。メッケルは戦術の権威であり、ドイツ側の好意は日本にとっては望外の喜びであった。もっとも、本人は「[[ドイツワイン#主な生産地域|モーゼル・ワイン]]のないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。だが[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]までも担ぎ出した陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」と折れた。ワインの件は、[[横浜市|横浜]]でモーゼルワインが入手できることを知って訪日を決意したという。日本からの要請は「3年間の派遣」だったが、本人には伏せられていた。
陸軍の近代化を推し進めていた日本政府は[[ドイツ]]に兵学教官派遣を要請した。日本からの度重なる派遣要請に対し、当時[[フランス]]が日本に教官を派遣していたことから、ドイツはこれに応じ、陸軍参謀総長の[[ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ|ベルンハルト・フォン・モルトケ]](大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校([[:de:Kriegsakademie|de]])の兵学教官のメッケル少佐<ref>プロイセン陸軍では参謀科は歩兵科・工兵科・砲兵科と同じく独立した兵科であった。</ref>の派遣を決定し、メッケルは[[1885年]]3月に来日した<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/メッケル-141468 |title = 世界大百科事典 第2版の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-01-08 }}</ref>。メッケルは戦術の権威であり、ドイツ側の好意は日本にとっては望外の喜びであった。もっとも、本人は「[[ドイツワイン#主な生産地域|モーゼル・ワイン]]のないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。だが[[パウル・フォン・ヒンデンブルク|ヒンデンブルク]]までも担ぎ出した陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」と折れた。ワインの件は、[[横浜市|横浜]]でモーゼルワインが入手できることを知って訪日を決意したという。日本からの要請は「3年間の派遣」だったが、本人には伏せられていた。


[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]はメッケルを[[陸軍大学校]]教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、[[桂太郎]]、[[川上操六]]、[[児玉源太郎]]らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、[[東條英教]]や[[秋山好古]]などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。
[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]はメッケルを[[陸軍大学校]]教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、[[桂太郎]]、[[川上操六]]、[[児玉源太郎]]らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、[[東條英教]]や[[秋山好古]]などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。

2021年6月2日 (水) 13:26時点における版

クレメンス・W・J・メッケル
Klemens W. J. Meckel
渾名 渋柿オヤジ(日本軍)
生誕 1842年3月28日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ケルン
死没 (1906-07-05) 1906年7月5日(64歳没)
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国 ベルリン
所属組織 プロイセン王国陸軍
ドイツ帝国陸軍
軍歴 1860年 - 1896年
最終階級 少将
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クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケル(Klemens Wilhelm Jacob Meckel、1842年3月28日 - 1906年7月5日)は、プロイセン王国及びドイツ帝国の軍人。最終階級は少将明治時代前期に日本に兵学教官として赴任し、日本陸軍の軍制のプロイセン化の基礎を築いた。

経歴

ケルンに生まれる。実家のメッケル家はビール醸造家であった。メッケル家はドイツ南西部ラインラント=プファルツ州ビットブルク=プリュム郡ビットブルク・ラントの山間の村メッケルが発祥の地で、当地にやって来たローマ帝国の小部隊の隊長が始祖であったと伝えられている。1867年にプロイセン陸軍大学校を卒業した。普仏戦争にも参加し、鉄十字勲章も受賞した。 

陸軍の近代化を推し進めていた日本政府はドイツに兵学教官派遣を要請した。日本からの度重なる派遣要請に対し、当時フランスが日本に教官を派遣していたことから、ドイツはこれに応じ、陸軍参謀総長のベルンハルト・フォン・モルトケ(大モルトケ)の推薦により、陸軍大学校(de)の兵学教官のメッケル少佐[1]の派遣を決定し、メッケルは1885年3月に来日した[2]。メッケルは戦術の権威であり、ドイツ側の好意は日本にとっては望外の喜びであった。もっとも、本人は「モーゼル・ワインのないところには行きたくない」と、最初難色を示していたという。だがヒンデンブルクまでも担ぎ出した陸軍挙げての説得交渉に、「一年で帰任出来るならば」と折れた。ワインの件は、横浜でモーゼルワインが入手できることを知って訪日を決意したという。日本からの要請は「3年間の派遣」だったが、本人には伏せられていた。

日本陸軍はメッケルを陸軍大学校教官に任じ、参謀将校の養成を任せた。メッケル着任前の日本ではフランス式の兵制を範としていたが、桂太郎川上操六児玉源太郎らの「臨時陸軍制度審査委員会」がメッケルを顧問として改革を進め、ドイツ式の兵制を導入した。陸軍大学校での教育は徹底しており、彼が教鞭を取った最初の1期生で卒業できたのは、東條英教秋山好古などわずか半数の10人という厳しいものであった。その一方で、兵学講義の聴講を生徒だけでなく希望する者にも許したので、陸軍大学校長であった児玉を始め様々な階級の軍人が熱心に彼の講義を聴講した。

メッケルは陸軍大学校で「自分がドイツ軍師団を率いれば、日本軍など楽に撃破出来る」と豪語した。この言葉に学生のひとり根津一は反発し、その後の講義はメッケルと根津の論争の場になってしまった。メッケルは「自分は政府命令で来ているのだ、学生如きの侮辱は許さん」と帰国する勢いであった。仲裁に入った陸軍大学校幹事・岡本兵四郎にメッケルは「根津の如きは到底文明国の参謀に適せず」と述べ、結局根津は諭旨退学となっている。メッケルの豪語は学生を鼓舞するもので民族的偏見によるものではなかったが、帝国主義世界では新興国であるドイツ人と近代化を急いでいた日本人のプライドがぶつかりあったのだった。実際、後に根津はメッケルを評して日本陸軍の恩人とし日清戦争・日露戦争での勝利の要因にメッケルの指導をあげている。

また児玉源太郎の才覚を高く評価し気にかけており、「児玉は必ず将来日本を荷う人物となるであろう。彼のような英才がもう2、3人あったならば……」と評価していた[3]

3年間日本に滞在した後、1888年3月にドイツへ帰国。帰国後はマインツナッサウ歩兵第2連隊長、参謀本部戦史部長、陸軍大学校教官などを経て1894年に陸軍少将へ昇進し、1895年には参謀本部次長となったが、皇帝ヴィルヘルム2世への受けはよくなく、1896年、プロイセン貴族への授爵が却下され、ポーゼン州グネーゼンの第8歩兵旅団長に左遷される辞令を受けた直後に依願退役。帰国後も自らが育てた日本陸軍の発展に日頃から気を留め、日露戦争開戦時には満州軍総参謀長に任命された児玉宛に、メッケル自身が立案した作戦計画を記した手紙や電報を送っている。また欧米の識者が日本の敗北を疑わなかった時期に早くから日本軍の勝利を予想、「日本陸軍には私が育てた軍人、特に児玉将軍が居る限りロシアに敗れる事は無い。児玉将軍は必ず満州からロシアを駆逐するであろう」と述べたと伝えられている。

1906年、ベルリンにて64歳で死去した。退役後に連隊長時代の部下の元妻と結婚し、日本陸軍から派遣されてくる留学生に個人授業を行ったほか、音楽に親しみ、オペラも作曲した。

メッケルが日本に及ぼした影響

メッケルが日本の戦略思想に与えた影響について、高山信武は以下のことを挙げている。[3]

  1. 日本の活躍の場が大陸であるとして、大陸に兵を送った際の補給のための施策を提案した。
  2. 渡河作戦用の舟艇を鉄製にすることを提案し、日本軍人から冷笑されたが、試作してみて効果があったため、以後鉄製舟艇が採用された。
  3. 軍備・軍制の改革のため臨時陸軍制度審査委員会が作られたが、メッケルも顧問として参加し、諮問に応じた。これにもとづき、陸軍は歩兵操典を改正したが、メッケルの影響によりドイツ式運用を取り入れているところが多かった。
  4. メッケルはしばしば参謀演習旅行を計画統裁したが、これは陸軍大学校の伝統行事となった。
  5. 包囲重視、緒戦必勝、兵站の重視、健兵養成、作戦及び精神力の強調、主動権の確保といったモルトケ継承の戦略思想を徹底したことで、日本兵学に大きな影響を与えた。

東京青山の陸軍大学校の校庭には二つの胸像があったが、それはメッケルと石田保政のものだったという[3]

人物

来日当時禿頭で髭面であったため、学生からは「渋柿オヤジ(ジジイ)」とあだ名されていた。

著書

脚注

  1. ^ プロイセン陸軍では参謀科は歩兵科・工兵科・砲兵科と同じく独立した兵科であった。
  2. ^ 世界大百科事典 第2版の解説”. コトバンク. 2018年1月8日閲覧。
  3. ^ a b c 上法快男編、高山信武著、『続・陸軍大学校』芙蓉書房 1978年

参考文献

関連項目