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'''アレクサンドル・フリストフォロヴィチ・ベンケンドルフ[[伯爵]]''' ([[ロシア語]]:'''{{Lang|rus|Александр Христофорович Бенкендорф}}''', [[ドイツ語]]:'''アレクサンデル・フォン・ベンケンドルフ'''; '''Alexander von Benckendorff''', [[1783年]][[7月4日]] - [[1844年]][[9月23日]])は、[[帝政ロシア]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[陸軍中将]]。[[バルト・ドイツ人]][[貴族]]の出身。[[1812年]][[ナポレオン戦争]](ロシアでは祖国戦争)において、[[アレクサンドル1世]]の大本営で上級副官、騎兵将軍を務めた。その後、[[ニコライ1世]]の時代に[[皇帝官房第三部]]初代長官、[[憲兵隊]]長を務めて反動体制の一翼を担った。
'''アレクサンドル・フリストフォロヴィチ・ベンケンドルフ[[伯爵]]''' ([[ロシア語]]:'''{{Lang|rus|Александр Христофорович Бенкендорф}}''', [[ドイツ語]]:'''アレクサンデル・フォン・ベンケンドルフ'''; '''Alexander von Benckendorff''', [[1783年]][[7月4日]] - [[1844年]][[9月23日]])は、[[帝政ロシア]]の[[軍人]]、[[政治家]]。[[陸軍中将]]。[[バルト・ドイツ人]][[貴族]]の出身。[[1812年]][[ナポレオン戦争]](ロシアでは祖国戦争)において、[[アレクサンドル1世]]の大本営で上級副官、騎兵将軍を務めた。その後、[[ニコライ1世]]の時代に[[皇帝官房第三部]]初代長官、[[憲兵隊]]長を務めて反動体制の一翼を担った。


1783年(墓石には[[1781年]]と刻まれている)、レヴァル(現在の[[エストニア]]の首都、[[タリン]])にバルト・ドイツ人貴族の家に生まれる。2歳下の弟に軍人、外交官の[[コンスタンチン・ベンケンドルフ|コンスタンチン・フリストフォロヴィチ・ベンケンドルフ]]爵、妹に[[ロンドン]]、[[パリ]]社交界で有名な貴婦人であった[[ダリヤ・リーヴェン]]公爵夫人がいる。
1783年(墓石には[[1781年]]と刻まれている)、レヴァル(現在の[[エストニア]]の首都、[[タリン]])にバルト・ドイツ人貴族の家に生まれる。2歳下の弟に軍人、外交官の[[コンスタンチン・ベンケンドルフ|コンスタンチン・フリストフォロヴィチ・ベンケンドルフ]]爵、妹に[[ロンドン]]、[[パリ]]社交界で有名な貴婦人であった[[ダリヤ・リーヴェン]]公爵夫人がいる。


[[1806年]]以降の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]との戦いに出征し、[[1812年]]にナポレオンが[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を開始するとベリシ(ヴェリシ、[[w:Velizh]])で[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]と対峙し、フランス軍の将軍3名を捕虜にするなどの戦果を挙げた。大陸軍が[[モスクワ]]から退却した後、モスクワ駐留軍司令官に任命される。さらにナポレオンを追撃すべくヨーロッパ派遣軍に参加し、テンペルベルク(Tempelberg)でフランス軍を撃破し、[[ベルリン]]に入城した。さらに[[ライプツィヒ]]での戦闘と、[[オランダ]]からフランス軍を掃討し名を上げた。
[[1806年]]以降の[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]との戦いに出征し、[[1812年]]にナポレオンが[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]を開始するとベリシ(ヴェリシ、[[w:Velizh]])で[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]と対峙し、フランス軍の将軍3名を捕虜にするなどの戦果を挙げた。大陸軍が[[モスクワ]]から退却した後、モスクワ駐留軍司令官に任命される。さらにナポレオンを追撃すべくヨーロッパ派遣軍に参加し、テンペルベルク(Tempelberg)でフランス軍を撃破し、[[ベルリン]]に入城した。さらに[[ライプツィヒ]]での戦闘と、[[オランダ]]からフランス軍を掃討し名を上げた。

2021年3月25日 (木) 00:44時点における版

アレクサンドル・ベンケンドルフ
ベンケンドルフの墓(2009年撮影)。日付は旧暦で、生年は1781年となっている

アレクサンドル・フリストフォロヴィチ・ベンケンドルフ伯爵ロシア語Александр Христофорович Бенкендорф, ドイツ語アレクサンデル・フォン・ベンケンドルフ; Alexander von Benckendorff, 1783年7月4日 - 1844年9月23日)は、帝政ロシア軍人政治家陸軍中将バルト・ドイツ人貴族の出身。1812年ナポレオン戦争(ロシアでは祖国戦争)において、アレクサンドル1世の大本営で上級副官、騎兵将軍を務めた。その後、ニコライ1世の時代に皇帝官房第三部初代長官、憲兵隊長を務めて反動体制の一翼を担った。

1783年(墓石には1781年と刻まれている)、レヴァル(現在のエストニアの首都、タリン)にバルト・ドイツ人貴族の家に生まれる。2歳下の弟に軍人、外交官のコンスタンチン・フリストフォロヴィチ・ベンケンドルフ男爵、妹にロンドンパリ社交界で有名な貴婦人であったダリヤ・リーヴェン公爵夫人がいる。

1806年以降のナポレオンとの戦いに出征し、1812年にナポレオンがロシア遠征を開始するとベリシ(ヴェリシ、w:Velizh)で大陸軍と対峙し、フランス軍の将軍3名を捕虜にするなどの戦果を挙げた。大陸軍がモスクワから退却した後、モスクワ駐留軍司令官に任命される。さらにナポレオンを追撃すべくヨーロッパ派遣軍に参加し、テンペルベルク(Tempelberg)でフランス軍を撃破し、ベルリンに入城した。さらにライプツィヒでの戦闘と、オランダからフランス軍を掃討し名を上げた。

1821年、皇帝アレクサンドル1世に対してデカブリストについて警告を言上したが、皇帝は意に介さなかった。1825年のアレクサンドル1世の崩御後、帝位をめぐりコンスタンチン・パヴロヴィチ大公とニコライ1世の間で混乱、空隙をついてデカブリストの乱が起こる。反乱はニコライ1世によってただちに鎮圧されるが、ベンケンドルフは乱後に設置された調査委員会に所属し、憲兵隊および政治秘密警察として皇帝直属官房第三部の創設について答申した。ベンケンドルフの提案はニコライ1世によって容れられ、1826年にベンケンドルフは憲兵隊長兼皇帝官房第三部初代長官に任命される。ベンケンドルフは第三部を通じて検閲を強化し、それは文学作品や演劇にまで及んだ。あまりに職務に熱中したために、ベンケンドルフは時たま自分の名前を忘れてしまって自分の名刺を見て思い出していたという。アレクサンドル・ゲルツェンは回想録で、多くの無実の者たちが犠牲になったとベンケンドルフを糾弾している。

ベンケンドルフは、タリン近郊のケイラ=ジョアの一族の墓地に眠っている。

ベンケンドルフは生涯に渡って日記を付けており、2001年に1812年と1813年の分が出版された。

関連書籍

  • Ronald Hingley, The Russian Secret Police: Muscovite, Imperial, and Soviet Political Security Operations (Simon & Schuster, New York, 1970). ISBN 0671208861
  • R. J. Stove, The Unsleeping Eye: Secret Police and Their Victims (Encounter Books, San Francisco, 2003). ISBN 189355466X