「ボヤーリン (防護巡洋艦)」の版間の差分

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1904年[[1月27日]]<ref>当時ロシアで使用されていた[[ユリウス暦]]による。現代の[[グレゴリオ暦]]では[[2月9日]]になる。</ref>、偵察任務に就いていたボヤーリンは戦艦[[三笠_(戦艦)|三笠]]を[[旗艦]]とする[[大日本帝国海軍|日本海軍]]主力艦隊を発見した。ボヤーリンは左舷方向に移動しながら応戦しつつ、味方艦隊へ敵艦隊発見の報を知らせた。
1904年[[1月27日]]<ref>当時ロシアで使用されていた[[ユリウス暦]]による。現代の[[グレゴリオ暦]]では[[2月9日]]になる。</ref>、偵察任務に就いていたボヤーリンは戦艦[[三笠_(戦艦)|三笠]]を[[旗艦]]とする[[大日本帝国海軍|日本海軍]]主力艦隊を発見した。ボヤーリンは左舷方向に移動しながら応戦しつつ、味方艦隊へ敵艦隊発見の報を知らせた。


日本艦隊による旅順艦隊攻撃が終わると、ボヤーリンは[[大連湾]]へ機雷を敷設に向かう機雷敷設艦[[アムール級機雷敷設艦 (1898)|エニセイ]]を護衛し、それから旅順に戻った<ref>日露旅順海戦史、30ページ</ref>。エニセイは機雷の敷設を行ったが、1月29日に自艦が敷設した機雷に触れて沈没した<ref>日露旅順海戦史、30-31ページ</ref>。このエニセイの沈没は日本軍の機雷または駆逐艦によるものと誤認され、大連警備司令官は日本軍駆逐艦出現を報告。それを受けてボヤーリンと駆逐艦ヴラーストヌイ、フヌシーチェリヌイ、ストロジェヴォーイ、ラストロープヌイが大連湾へ向かうよう命じられた<ref>日露旅順海戦史、31ページ</ref>。ボヤーリンと4隻の駆逐艦は1月29日午後3時30分ごろに旅順から出撃したが、同日午後5時ごろに[[南三山島]]南方沖で[[味方の敷設した]] <ref>ニコライ2世の日記、2月13日</ref>[[機雷]]に触れた<ref name="manabe32">日露旅順海戦史、32ページ</ref>。触雷による浸水で15度傾斜するも沈没はしなかったが、ボヤーリン艦長サルイチェフ大佐は乗員を退去させて駆逐艦にボヤーリンの処分を命じた<ref name="manabe32"/>。そして駆逐艦ストロジェヴォーイがボヤーリンに対して魚雷を発射したが命中せず、ボヤーリンは放置された<ref name="manabe32"/>。翌日南三山島に座礁しているところが発見され修理可能と判断されたが、翌日は荒天のため作業が行えず、その翌日には姿を消していた<ref>日露旅順海戦史、32-33ページ</ref>。暴風により流されて再度触雷し沈没したようであり、住民が数度の爆発音を聞いている<ref>日露旅順海戦史、33ページ</ref>。
日本艦隊による旅順艦隊攻撃が終わると、ボヤーリンは[[大連湾]]へ機雷を敷設に向かう機雷敷設艦[[アムール級機雷敷設艦 (1898)|エニセイ]]を護衛し、それから旅順に戻った<ref>日露旅順海戦史、30ページ</ref>。エニセイは機雷の敷設を行ったが、1月29日に自艦が敷設した機雷に触れて沈没した<ref>日露旅順海戦史、30-31ページ</ref>。このエニセイの沈没は日本軍の機雷または駆逐艦によるものと誤認され、大連警備司令官は日本軍駆逐艦出現を報告。それを受けてボヤーリンと駆逐艦ヴラーストヌイ、フヌシーチェリヌイ、ストロジェヴォーイ、ラストロープヌイが大連湾へ向かうよう命じられた<ref>日露旅順海戦史、31ページ</ref>。ボヤーリンと4隻の駆逐艦は1月29日午後3時30分ごろに旅順から出撃したが、同日午後5時ごろに[[南三山島]]南方沖で味方の敷設した <ref>ニコライ2世の日記、2月13日</ref>[[機雷]]に触れた<ref name="manabe32">日露旅順海戦史、32ページ</ref>。触雷による浸水で15度傾斜するも沈没はしなかったが、ボヤーリン艦長サルイチェフ大佐は乗員を退去させて駆逐艦にボヤーリンの処分を命じた<ref name="manabe32"/>。そして駆逐艦ストロジェヴォーイがボヤーリンに対して魚雷を発射したが命中せず、ボヤーリンは放置された<ref name="manabe32"/>。翌日南三山島に座礁しているところが発見され修理可能と判断されたが、翌日は荒天のため作業が行えず、その翌日には姿を消していた<ref>日露旅順海戦史、32-33ページ</ref>。暴風により流されて再度触雷し沈没したようであり、住民が数度の爆発音を聞いている<ref>日露旅順海戦史、33ページ</ref>。


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ボヤーリン
Боярин
バルト海上のボヤーリン
バルト海上のボヤーリン
艦歴
起工 1900年8月24日 ブルマイスター&ヴァイン社
進水 1901年5月26日
竣工 1902年
所属 ロシア帝国海軍バルト艦隊
難破 1904年1月29日
沈没 1904年1月31日
要目
艦種 二等巡洋艦防護巡洋艦
艦級 ボヤーリン級
排水量 3274 t
全長 108.4 m
全幅 12.6 m
喫水 4.9 m
機関 蒸気機関 2 基
ベルヴィルボイラー 16 基
出力 11190 馬力
プロペラシャフト 4 基
スクリュープロペラ 4 基
燃料 600 t
速力 22.5 kn
航続距離 3000 nm/10 kn
乗員 士官 16 名
水兵 315 名
武装 45口径120 mm単装砲 6 基
43口径47 mm単装砲 8 門
23口径37 mm単装砲 1 門
20口径63.5 mm単装上陸砲 2 門
7.62 mm機銃 2 挺
381 mm水中魚雷発射管 5 門
装甲 材質 クルップ鋼
下部甲板 30 - 51 mm
司令塔 76 mm

ボヤーリンロシア語:Бояринバヤーリン)は、ロシア帝国の二等防護巡洋艦бронепалубный крейсер II-ранга)である。艦名は先代のコルベットから受け継いだもので、中世ルーシ世襲貴族ボヤーリン」に由来している[1]

概要

ボヤーリンは、二等防護巡洋艦ノヴィークジェームチュクイズムルートとともに極東方面の艦隊戦力増強のために計画された艦であった。建造は 「太平洋の必要のための」特別建艦計画によって行われた。

艦の任務は、艦隊の近距離偵察とされていた。設計は、棚式から吊り下げ式に変更された120 mmおよび47 mm砲弾庫と新しい給弾用エレベーターシャフト、電線通路の気密水密覆い、鉛張りケーブルの採用、などの点に先進性が見られた。

1900年8月24日コペンハーゲンのブルマイスター&ヴァイン社(現MAN B&W ディーゼル社)で起工した。1901年5月26日には進水1902年10月に竣工した。

1902年10月27日、ボヤーリンはクロンシュタットを出航し、1903年5月10日ポルト=アルトゥールへ到着した。1903年秋には仁川に出航し、一等防護巡洋艦ヴァリャーグを支援して同港に1904年1月1日まで留まった。

1904年1月27日[2]、偵察任務に就いていたボヤーリンは戦艦三笠旗艦とする日本海軍主力艦隊を発見した。ボヤーリンは左舷方向に移動しながら応戦しつつ、味方艦隊へ敵艦隊発見の報を知らせた。

日本艦隊による旅順艦隊攻撃が終わると、ボヤーリンは大連湾へ機雷を敷設に向かう機雷敷設艦エニセイを護衛し、それから旅順に戻った[3]。エニセイは機雷の敷設を行ったが、1月29日に自艦が敷設した機雷に触れて沈没した[4]。このエニセイの沈没は日本軍の機雷または駆逐艦によるものと誤認され、大連警備司令官は日本軍駆逐艦出現を報告。それを受けてボヤーリンと駆逐艦ヴラーストヌイ、フヌシーチェリヌイ、ストロジェヴォーイ、ラストロープヌイが大連湾へ向かうよう命じられた[5]。ボヤーリンと4隻の駆逐艦は1月29日午後3時30分ごろに旅順から出撃したが、同日午後5時ごろに南三山島南方沖で味方の敷設した [6]機雷に触れた[7]。触雷による浸水で15度傾斜するも沈没はしなかったが、ボヤーリン艦長サルイチェフ大佐は乗員を退去させて駆逐艦にボヤーリンの処分を命じた[7]。そして駆逐艦ストロジェヴォーイがボヤーリンに対して魚雷を発射したが命中せず、ボヤーリンは放置された[7]。翌日南三山島に座礁しているところが発見され修理可能と判断されたが、翌日は荒天のため作業が行えず、その翌日には姿を消していた[8]。暴風により流されて再度触雷し沈没したようであり、住民が数度の爆発音を聞いている[9]

ギャラリー

脚注

  1. ^ キエフ・ルーシ時代から大貴族を意味する階級名称であったが、特にモスクワ大公国(のちロシア・ツァーリ国)では、社会階層ではなく貴族会議ボヤールスカヤ・ドゥーマ)の最高仕官位に組み替えられており、日本語文献では「会議貴族」とも翻訳されている。軍艦の名がどの時代の「ボヤーリン」を想定しているかは不明であるが、艦の建造時期から考えれば、モスクワ大公国式の「会議貴族」であると考えるのが妥当である。なお、「ボヤーリン」は単数形で、階級そのものを表す場合は複数形の「ボヤーレ」(бояре)を用いる。
  2. ^ 当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。現代のグレゴリオ暦では2月9日になる。
  3. ^ 日露旅順海戦史、30ページ
  4. ^ 日露旅順海戦史、30-31ページ
  5. ^ 日露旅順海戦史、31ページ
  6. ^ ニコライ2世の日記、2月13日
  7. ^ a b c 日露旅順海戦史、32ページ
  8. ^ 日露旅順海戦史、32-33ページ
  9. ^ 日露旅順海戦史、33ページ

関連項目

参考文献

外部リンク