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ドミンゴス中村長八(なかむら・ちょうはち、[[1856年]][[8月2日]] - [[1940年]][[3月14日]])は、[[明治]]〜[[昭和|昭和時代]]前期の[[司祭|カトリック司祭]]。[[長崎県]][[五島列島]]出身。[[奄美大島]]での26年間の司牧を経て、17年間[[ブラジル]]在住の日本人移民・[[日系人]]の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり<ref>{{Cite journal|author=新谷 光 アルベルト|year=2015年3月|title=「ブラジルの日本移民とカトリック教会の社会的役割」|journal=『移民研究年報』|volume=21号|page=p.119-137|編集=日本移民学会編}}</ref>、生前にすでに「'''生ける聖人'''」と呼ばれていた<ref>{{Cite web|url=http://oratio.jp/p_column/goto-nakamura|title=五島の誇り、中村長八神父 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)|accessdate=2018-04-15|website=oratio.jp}}</ref>。
'''ドミンゴス中村長八'''(なかむら・ちょうはち、[[1856年]][[8月2日]] - [[1940年]][[3月14日]])は、[[明治]]〜[[昭和|昭和時代]]前期の[[司祭|カトリック司祭]]。[[長崎県]][[五島列島]]出身。[[奄美大島]]での26年間の司牧を経て、17年間[[ブラジル]]在住の日本人移民・[[日系人]]の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり<ref>{{Cite journal|author=新谷 光 アルベルト|year=2015年3月|title=「ブラジルの日本移民とカトリック教会の社会的役割」|journal=『移民研究年報』|volume=21号|page=p.119-137|編集=日本移民学会編}}</ref>、生前にすでに「'''生ける聖人'''」と呼ばれていた<ref>{{Cite web|url=http://oratio.jp/p_column/goto-nakamura|title=五島の誇り、中村長八神父 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)|accessdate=2018-04-15|website=oratio.jp}}</ref>。


ローマ字表記は「Domingos Chohachi Nakamura」であり、日本語の呼び方は「中村神父」「[[モンシニョール|モンセニョール]]中村」「ブラジル日本移民の使徒」「日本移民の心の父」など。
ローマ字表記は「Domingos Chohachi Nakamura」であり、の呼び方は「中村神父」「[[モンシニョール|モンセニョール]]中村」「ブラジル日本移民の使徒」「日本移民の心の父」「Padre Nakamura」「Monsenhor Nakamura」など。


1938年、[[ピウス11世 (ローマ教皇)|教皇ピオ11世]]より「大聖グレゴリオ勲章」を受賞。1940年3月、[[カトリック鹿児島司教区|鹿児島司教区]]の使徒管理に任命されたが、着任せずに同月にブラジルにて死去。[[2002年]]より列福調査が始まった<ref>{{Cite web|url=http://newsaints.faithweb.com/year/1940.htm|title=1940|accessdate=2018-04-15|website=newsaints.faithweb.com}}</ref>。現在、日本人または日本で活躍した人で、列福調査が進められている数人のうちのの一人である<ref>{{Cite web|url=https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/kibe187/mizobe1/|title=カトリック中央協議会|accessdate=2018-04-15|website=カトリック中央協議会|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|title=移民信者を救った使徒=中村長八神父の本出版 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB|date=2008-12-06|url=http://www.nikkeyshimbun.jp/2008/081206-73colonia.html|accessdate=2018-04-15|language=ja-JP|work=ブラジル知るならニッケイ新聞WEB}}</ref>。[[聖人]]と認められたら、初の[[殉教者]]でない日本人聖人となる。長崎のカトリック堂崎教会には中村神父についての資料が展示されています<ref>{{Cite web|url=http://nagasaki.tenjounoao.com/sp/kyusyu/nagasaki/nagasakihs58dozaki.html|title=カトリック堂崎教会 {{!}} 長崎 {{!}} 史跡案内 {{!}} 天上の青|accessdate=2018-04-15|website=nagasaki.tenjounoao.com|language=ja}}</ref>。
1938年、[[ピウス11世 (ローマ教皇)|教皇ピオ11世]]より「大聖グレゴリオ勲章」を受賞。1940年3月、[[カトリック鹿児島司教区|鹿児島司教区]]の使徒管理に任命されたが、着任せずに同月にブラジルにて死去。[[2002年]]より列福調査が始まった<ref>{{Cite web|url=http://newsaints.faithweb.com/year/1940.htm|title=1940|accessdate=2018-04-15|website=newsaints.faithweb.com}}</ref>。現在、日本人または日本で活躍した人で、列福調査が進められている数人のうちのの一人である<ref>{{Cite web|url=https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/kibe187/mizobe1/|title=カトリック中央協議会|accessdate=2018-04-15|website=カトリック中央協議会|language=ja}}</ref><ref>{{Cite news|title=移民信者を救った使徒=中村長八神父の本出版 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB|date=2008-12-06|url=http://www.nikkeyshimbun.jp/2008/081206-73colonia.html|accessdate=2018-04-15|language=ja-JP|work=ブラジル知るならニッケイ新聞WEB}}</ref>。[[聖人]]と認められたら、初の[[殉教者]]でない日本人聖人となる。長崎のカトリック堂崎教会には中村についての資料が展示されてい<ref>{{Cite web|url=http://nagasaki.tenjounoao.com/sp/kyusyu/nagasaki/nagasakihs58dozaki.html|title=カトリック堂崎教会 {{!}} 長崎 {{!}} 史跡案内 {{!}} 天上の青|accessdate=2018-04-15|website=nagasaki.tenjounoao.com|language=ja}}</ref>。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
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* [[1897年]]2月7日 - [[カトリック長崎大司教区|長崎司教]]第3代のアルフォンス・クーザンから司祭叙階を受ける<ref>{{Cite web|url=http://fukuechurch.web.fc2.com/sisai13.html|title=邦人司祭の相次ぐ誕生|accessdate=2018年4月15日|publisher=}}</ref>。2週間後、(1892年3月よりフランス人神父によってカトリック宣教が開始された)[[奄美大島]]ミッションの任を受ける<ref>{{Cite news|title=日本人初の海外派遣宣教師の生家などを訪問 長崎・五島|date=2007-12-07|url=http://www.christiantoday.co.jp/articles/1718/20071207/news.htm|accessdate=2018-04-15|language=ja|work=クリスチャントゥデイ}}</ref>。同島で26年間、ずっと働き続けて島民から尊敬を受け、賞賛の的となった。カトリック信者でない人からも親しみを持たれ、尊敬された。
* [[1897年]]2月7日 - [[カトリック長崎大司教区|長崎司教]]第3代のアルフォンス・クーザンから司祭叙階を受ける<ref>{{Cite web|url=http://fukuechurch.web.fc2.com/sisai13.html|title=邦人司祭の相次ぐ誕生|accessdate=2018年4月15日|publisher=}}</ref>。2週間後、(1892年3月よりフランス人神父によってカトリック宣教が開始された)[[奄美大島]]ミッションの任を受ける<ref>{{Cite news|title=日本人初の海外派遣宣教師の生家などを訪問 長崎・五島|date=2007-12-07|url=http://www.christiantoday.co.jp/articles/1718/20071207/news.htm|accessdate=2018-04-15|language=ja|work=クリスチャントゥデイ}}</ref>。同島で26年間、ずっと働き続けて島民から尊敬を受け、賞賛の的となった。カトリック信者でない人からも親しみを持たれ、尊敬された。
* [[1922年]] - 司教からのブラジル宣教への要請に教区の司祭らが返事しなかったため、中村神父は次にように答えた:「もう年老いておりますので、さほどお役に立つとは思いませんが、もし私でよければ、私がブラジルへ参りましょう」<ref>{{Cite web|url=https://www.bizpoint.com.br/site-antigo/jp/reports/oth/hm0802.htm|title=中村長八神父|accessdate=2018-04-15|website=www.bizpoint.com.br}}</ref>。これに対して、[[カトリック長崎大司教区|長崎教区]]のジャン・クロード・コンバス司教より電報を受ける。
* [[1922年]] - 司教からのブラジル宣教への要請に教区の司祭らが返事しなかったため、中村は次にように答えた:「もう年老いておりますので、さほどお役に立つとは思いませんが、もし私でよければ、私がブラジルへ参りましょう」<ref>{{Cite web|url=https://www.bizpoint.com.br/site-antigo/jp/reports/oth/hm0802.htm|title=中村長八神父|accessdate=2018-04-15|website=www.bizpoint.com.br}}</ref>。これに対して、[[カトリック長崎大司教区|長崎教区]]のジャン・クロード・コンバス司教より電報を受ける。
* [[1923年]]1月9日 - [[奄美大島]]出発<ref>{{Cite web|url=http://revito.web.fc2.com/ijyu/ijyu1.html|title=日系移住者とキリスト教(1)|accessdate=2018-04-15|website=revito.web.fc2.com|language=ja}}</ref>。
* [[1923年]]1月9日 - [[奄美大島]]出発<ref>{{Cite web|url=http://revito.web.fc2.com/ijyu/ijyu1.html|title=日系移住者とキリスト教(1)|accessdate=2018-04-15|website=revito.web.fc2.com|language=ja}}</ref>。
* [[1923年]]6月11日 - 「郵船河内丸」に乗船、渡伯。
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* [[1940年]]2月 - 病床につく。
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* [[1940年]]3月14日、午後4時 - [[サンパウロ州]]奥地のアルヴァレス・マシャード市ブレジャオ地区にて死去(76歳)。
* [[1940年]]3月14日、午後4時 - [[サンパウロ州]]奥地のアルヴァレス・マシャード市ブレジャオ地区にて死去(76歳)。
* [[1940年]]3月 - [[教皇庁]]により、中村神父は[[カトリック鹿児島司教区|鹿児島司教区]]の使徒管理の任命を受ける([[モンシニョール|モンセニョール]]称号を受ける)。しかし、手紙は中村神父死去の1週間後にアルヴァレス・マシャードに届いたため、1940年6月30日に長崎教区の出口一太郎神父(1940年 - 1955年)が任命された。
* [[1940年]]3月 - [[教皇庁]]により、中村は[[カトリック鹿児島司教区|鹿児島司教区]]の使徒管理の任命を受ける([[モンシニョール|モンセニョール]]称号を受ける)。しかし、手紙は中村神父死去の1週間後にアルヴァレス・マシャードに届いたため、1940年6月30日に長崎教区の出口一太郎神父(1940年 - 1955年)が任命された。
* [[2002年]]8月13日 - 列福調査開始
* [[2002年]]8月13日 - 列福調査開始


== ブラジルでの宣教活動 ==
== ブラジルでの宣教活動 ==
中村神父が一人で担当していた地域は[[サンパウロ州]]、[[マットグロッソ州]]、[[パラナ州]]、そして[[ミナスジェライス州]]南部の計4州だった(前者の3州だけを合わせれば、合計面積は1,350,880km<sup>2</sup>以上であり、日本列島面積の約3,5倍である)。「彼は約60キロもあるミサ典書や石の祭壇、その他のミサ用品を入れたトランクと、私物を入れたトランクの二つを持ち歩いていました。(中略)たった一人(の信者)であっても、10kmやそれ以上も訪ねていったのです」<ref name=":0">{{Cite book|author=大西ペドロ著、水野一訳|title=『ドミンゴス中村長八神父:ブラジル日本移民の使徒』|date=2007年11月|year=|accessdate=|publisher=聖母の騎士社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。広大な荒野に散在した日本人家族を振分け荷を肩に徒歩や馬で巡回、ときには野宿、毎年9カ月は旅に暮らした。それまで日本人を邪教徒視していたブラジル人からも聖人と慕われた。
中村が一人で担当していた地域は[[サンパウロ州]]、[[マットグロッソ州]]、[[パラナ州]]、そして[[ミナスジェライス州]]南部の計4州だった(前者の3州だけを合わせれば、合計面積は1,350,880km<sup>2</sup>以上であり、日本列島面積の約3,5倍である)。「彼は約60キロもあるミサ典書や石の祭壇、その他のミサ用品を入れたトランクと、私物を入れたトランクの二つを持ち歩いていました。(中略)たった一人(の信者)であっても、10kmやそれ以上も訪ねていったのです」<ref name=":0">{{Cite book|author=大西ペドロ著、水野一訳|title=『ドミンゴス中村長八神父:ブラジル日本移民の使徒』|date=2007年11月|year=|accessdate=|publisher=聖母の騎士社|author2=|author3=|author4=|author5=|author6=|author7=|author8=|author9=}}</ref>。広大な荒野に散在した日本人家族を振分け荷を肩に徒歩や馬で巡回、ときには野宿、毎年9カ月は旅に暮らした。それまで日本人を邪教徒視していたブラジル人からも聖人と慕われた。


ブラジルでの17年間の宣教活動中に1,750名(日本人1,304名 / ブラジル人440名 / 混血児6名)に洗礼を授けたという<ref name=":0" />。
ブラジルでの17年間の宣教活動中に1,750名(日本人1,304名 / ブラジル人440名 / 混血児6名)に洗礼を授けたという<ref name=":0" />。

2018年4月15日 (日) 18:46時点における版

ファイル:Domingos chohachi nakamura.jpg
中村神父

ドミンゴス中村長八(なかむら・ちょうはち、1856年8月2日 - 1940年3月14日)は、明治昭和時代前期のカトリック司祭長崎県五島列島出身。奄美大島での26年間の司牧を経て、17年間ブラジル在住の日本人移民・日系人の司牧活動に取り組んだ。初の海外派遣日本人宣教師であり[1]、生前にすでに「生ける聖人」と呼ばれていた[2]

ローマ字表記は「Domingos Chohachi Nakamura」であり、他の呼び方は「中村神父」「モンセニョール中村」「ブラジル日本移民の使徒」「日本移民の心の父」「Padre Nakamura」「Monsenhor Nakamura」など。

1938年、教皇ピオ11世より「大聖グレゴリオ勲章」を受賞。1940年3月、鹿児島司教区の使徒管理に任命されたが、着任せずに同月にブラジルにて死去。2002年より列福調査が始まった[3]。現在、日本人または日本で活躍した人で、列福調査が進められている数人のうちのの一人である[4][5]聖人と認められたら、初の殉教者でない日本人聖人となる。長崎のカトリック堂崎教会には中村師についての資料が展示されている[6]

生涯

  • 1856年慶応元年)8月2日 - 長崎県五島列島福江島南松浦郡奥浦村で生まれた。両親は敬虔なカトリック信者であった初五郎とツグエであり、彼らにはヨネと長八の2人の子供がいた。長八の霊名は「ドミニコ」であるが、ポルトガル語読みの「ドミンゴス」も使っていた。
  • 1868年 - 海難事故で父を失う(3歳)。
  • 1880年 - 母と唯一人の姉が死亡(15歳)。同年、2人のフランス人神父の推薦により、長崎の神学校に入学(当時、長崎教区は九州全体および奄美大島と沖縄の島々をも包含していた)。哲学・神学の勉強に励み、優秀な成績を収めるとともに、ラテン語フランス語を学習。
  • 1897年2月7日 - 長崎司教第3代のアルフォンス・クーザンから司祭叙階を受ける[7]。2週間後、(1892年3月よりフランス人神父によってカトリック宣教が開始された)奄美大島ミッションの任を受ける[8]。同島で26年間、ずっと働き続けて島民から尊敬を受け、賞賛の的となった。カトリック信者でない人からも親しみを持たれ、尊敬された。
  • 1922年 - 司教からのブラジル宣教への要請に教区の司祭らが返事しなかったため、中村師は次にように答えた:「もう年老いておりますので、さほどお役に立つとは思いませんが、もし私でよければ、私がブラジルへ参りましょう」[9]。これに対して、長崎教区のジャン・クロード・コンバス司教より電報を受ける。
  • 1923年1月9日 - 奄美大島出発[10]
  • 1923年6月11日 - 「郵船河内丸」に乗船、渡伯。
  • 1923年8月23日 - ブラジル・サントス港に到着(58歳)。リオデジャネイロに向かい、ローマ教皇庁大使エンリコ・ガスパリ訪問。その後、中村神父は日本大使館を訪問し、田付七太大使に歓迎された。
  • 1923年8月29日 - サンパウロ市到着。
  • 1923年8月30日 - 目的地のボツカツ司教区についに到着し、初代司教ルシオ・アントゥーネス・デ・ソウザの大歓迎を受けた。
  • 1938年7月 - サンパウロにて、教皇ピオ11世に代わって山本信次郎海軍少将が「大聖グレゴリオ勲章」を授与した。
  • 1940年2月 - 病床につく。
  • 1940年3月14日、午後4時 - サンパウロ州奥地のアルヴァレス・マシャード市ブレジャオ地区にて死去(76歳)。
  • 1940年3月 - 教皇庁により、中村師は鹿児島司教区の使徒管理の任命を受ける(モンセニョール称号を受ける)。しかし、手紙は中村神父死去の1週間後にアルヴァレス・マシャードに届いたため、1940年6月30日に長崎教区の出口一太郎神父(1940年 - 1955年)が任命された。
  • 2002年8月13日 - 列福調査開始

ブラジルでの宣教活動

中村師が一人で担当していた地域はサンパウロ州マットグロッソ州パラナ州、そしてミナスジェライス州南部の計4州だった(前者の3州だけを合わせれば、合計面積は1,350,880km2以上であり、日本列島面積の約3,5倍である)。「彼は約60キロもあるミサ典書や石の祭壇、その他のミサ用品を入れたトランクと、私物を入れたトランクの二つを持ち歩いていました。(中略)たった一人(の信者)であっても、10kmやそれ以上も訪ねていったのです」[11]。広大な荒野に散在した日本人家族を振分け荷を肩に徒歩や馬で巡回、ときには野宿、毎年9カ月は旅に暮らした。それまで日本人を邪教徒視していたブラジル人からも聖人と慕われた。

ブラジルでの17年間の宣教活動中に1,750名(日本人1,304名 / ブラジル人440名 / 混血児6名)に洗礼を授けたという[11]

中村長八神父への祈り

神よ、あなたは限りない慈しみをもって数多くの恵みをあなたの僕(しもべ)ドミンゴス・中村長八神父に与えてくださいました。彼は牧者、旅する宣教者として隣人への愛のため、遠い道程を厭わず、福音の奉仕と人々の回心と魂の救いのために何百の村落をめぐりました。彼の謙遜、清貧、労働の模範にあやかる望みを私たちのうちに燃え上がらせてください。信仰と希望と愛徳を増し、私たちが強く望んでいるお恵みを与えてくださいますように。アーメン。(教会認可[12]

参考文献

脚注

  1. ^ 新谷 光 アルベルト (2015年3月). “「ブラジルの日本移民とカトリック教会の社会的役割」”. 『移民研究年報』 21号: p.119-137. 
  2. ^ 五島の誇り、中村長八神父 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)”. oratio.jp. 2018年4月15日閲覧。
  3. ^ 1940”. newsaints.faithweb.com. 2018年4月15日閲覧。
  4. ^ カトリック中央協議会”. カトリック中央協議会. 2018年4月15日閲覧。
  5. ^ “移民信者を救った使徒=中村長八神父の本出版 – ブラジル知るならニッケイ新聞WEB” (日本語). ブラジル知るならニッケイ新聞WEB. (2008年12月6日). http://www.nikkeyshimbun.jp/2008/081206-73colonia.html 2018年4月15日閲覧。 
  6. ^ カトリック堂崎教会 | 長崎 | 史跡案内 | 天上の青”. nagasaki.tenjounoao.com. 2018年4月15日閲覧。
  7. ^ 邦人司祭の相次ぐ誕生”. 2018年4月15日閲覧。
  8. ^ 日本人初の海外派遣宣教師の生家などを訪問 長崎・五島」『クリスチャントゥデイ』、2007年12月7日。2018年4月15日閲覧。
  9. ^ 中村長八神父”. www.bizpoint.com.br. 2018年4月15日閲覧。
  10. ^ 日系移住者とキリスト教(1)”. revito.web.fc2.com. 2018年4月15日閲覧。
  11. ^ a b 大西ペドロ著、水野一訳 (2007年11月). 『ドミンゴス中村長八神父:ブラジル日本移民の使徒』. 聖母の騎士社 
  12. ^ http://kaigai-senkyo.jp/hp/letter/089/89_2.html”. kaigai-senkyo.jp. 2018年4月15日閲覧。

関連項目

外部リンク