「アルフォンソ12世 (スペイン王)」の版間の差分
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[[ファイル:Alfonso XII with his second wife.jpg|right|thumb|200px|アルフォンソ12世と王妃マリア・クリスティーナ。1885年頃]] |
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'''アルフォンソ12世''' |
'''アルフォンソ12世'''({{lang-es|Alfonso XII}}、[[1857年]][[11月28日]] - [[1885年]][[11月25日]])は[[スペイン]]王(在位:[[1875年]] - 1885年)。女王[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]と[[王配]][[フランシスコ・デ・アシース・デ・ボルボーン|フランシスコ・デ・アシス・デ・ボルボン]]の子。 |
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王配フランシスコが同性愛者であることが知れ渡っていたため、アルフォンソの本当の父親は、近衛兵隊長エンリケ・プイグ・イ・モルトか、[[フランシスコ・セラーノ]]将軍のどちらかだという説がある。 |
王配フランシスコが同性愛者であることが知れ渡っていたため、アルフォンソの本当の父親は、近衛兵隊長エンリケ・プイグ・イ・モルトか、[[フランシスコ・セラーノ]]将軍のどちらかだという説がある。 |
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==生涯== |
== 生涯 == |
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[[1868年]]の革命により、イサベル女王と家族はスペインを追われ、[[パリ]]へ移った。アルフォンソは[[ウィーン]]で教育を受けた。[[1870年]]6月、パリへ呼ばれたアルフォンソは、引退表明した母から後継指名を受けた。その後、アルフォンソは[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]で軍人の訓練を受けた。[[1874年]]、支持者らの支援を得て、スペイン王位奪取を宣言([[スペイン王政復古]])。その年の終わりに、陸軍元帥セラノは[[マドリード]]を離れて、北部連隊を指揮して[[カルリスタ]]と戦闘を開始した。陸軍[[准将]][[マルティネス・カンポス]]は次々と南部を攻略し、王の名において[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]に入城した。アルフォンソは、[[バルセロナ]]、バレンシアを経てマドリードにわずか数日で到達、自由憲法の受諾を宣言した。アルフォンソはカルリスタたちに強力な宣伝活動を行い、大叔父[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|モリナ伯ドン・カルロス]]とその後継者たちへの支持は失速していった。 |
[[1868年]]の革命により、イサベル女王と家族はスペインを追われ、[[パリ]]へ移った。アルフォンソは[[ウィーン]]で教育を受けた。[[1870年]]6月、パリへ呼ばれたアルフォンソは、引退表明した母から後継指名を受けた。その後、アルフォンソは[[サンドハースト王立陸軍士官学校]]で軍人の訓練を受けた。[[1874年]]、支持者らの支援を得て、スペイン王位奪取を宣言([[スペイン王政復古]])。その年の終わりに、陸軍元帥セラノは[[マドリード]]を離れて、北部連隊を指揮して[[カルリスタ]]と戦闘を開始した。陸軍[[准将]][[マルティネス・カンポス]]は次々と南部を攻略し、王の名において[[バレンシア (スペイン)|バレンシア]]に入城した。アルフォンソは、[[バルセロナ]]、バレンシアを経てマドリードにわずか数日で到達、自由憲法の受諾を宣言した。アルフォンソはカルリスタたちに強力な宣伝活動を行い、大叔父[[カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン|モリナ伯ドン・カルロス]]とその後継者たちへの支持は失速していった<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Alphonso}}</ref>。 |
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アルフォンソは君主として統治を学ぶ機会が少なく、実際の在位期間も短かったが、[[亡命]]の経験が天性の資質と正当な判断力を磨いた。慈悲深く、思いやりのあるアルフォンソの心根は、大多数の国民の支持を勝ち取った。[[1885年]]、アルフォンソは恐れる様子もなく、[[コレラ]]に見舞われた地域、地震で崩壊した都市を訪問した。また、アルフォンソは特定の政党の手先にならないよう自身を律した。 |
アルフォンソは君主として統治を学ぶ機会が少なく、実際の在位期間も短かったが、[[亡命]]の経験が天性の資質と正当な判断力を磨いた。慈悲深く、思いやりのあるアルフォンソの心根は、大多数の国民の支持を勝ち取った。[[1885年]]、アルフォンソは恐れる様子もなく、[[コレラ]]に見舞われた地域、地震で崩壊した都市を訪問した。また、アルフォンソは特定の政党の手先にならないよう自身を律した<ref name="EB1911" />。 |
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アルフォンソ12世の統治した期間は、久しぶりにスペインが内政・外交ともに平和であった時期と重なる。経済活動も平常化した。革命の恐れなしに、スペインは[[アメリカ合衆国]]との悲惨な戦争を切り抜けることができた。 |
アルフォンソ12世の統治した期間は、久しぶりにスペインが内政・外交ともに平和であった時期と重なる。経済活動も平常化した。革命の恐れなしに、スペインは[[アメリカ合衆国]]との悲惨な戦争を切り抜けることができた<ref name="EB1911" />。 |
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[[1885年]]、[[肺結核]]で死去した。 |
[[1885年]]、[[肺結核]]で死去した。 |
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==家族== |
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[[1878年]]1月23日、従妹にあたるモンパンシエ公女[[マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス|マリア・デ・ラス・メルセデス]](イサベル女王の妹[[ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボン|ルイサ・フェルナンダ]]の娘)と結婚した。彼女は結婚から半年後に死去した。 |
[[1878年]]1月23日、従妹にあたるモンパンシエ公女[[マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・オルレアンス|マリア・デ・ラス・メルセデス]](イサベル女王の妹[[ルイサ・フェルナンダ・デ・ボルボン|ルイサ・フェルナンダ]]の娘)と結婚した。彼女は結婚から半年後に死去した<ref name="EB1911" />。 |
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[[1879年]]11月29日、遠縁にあたる[[カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール・フェルディナント大公]]の娘[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1858-1929)|マリア・クリスティーナ]]と結婚した。3子が生まれた。長男のアルフォンソ13世はアルフォンソの死後の誕生である。アルフォンソが死去した時点ではマリア・クリスティーナ王妃が身ごもった子供の性別が分からず、胎児の分娩まではいったん王位を空位としたうえで、長女マリア王女が暫定的な王位継承権第1位の立場につき、生誕した赤子が男児ならその子が直ちに国王に、女児なら長女マリア王女が国王となるように処置がとられた。 |
[[1879年]]11月29日、遠縁にあたる[[カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=テシェン|カール・フェルディナント大公]]の娘[[マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ (1858-1929)|マリア・クリスティーナ]]と結婚した。3子が生まれた。長男のアルフォンソ13世はアルフォンソの死後の誕生である。アルフォンソが死去した時点ではマリア・クリスティーナ王妃が身ごもった子供の性別が分からず、胎児の分娩まではいったん王位を空位としたうえで、長女マリア王女が暫定的な王位継承権第1位の立場につき、生誕した赤子が男児ならその子が直ちに国王に、女児なら長女マリア王女が国王となるように処置がとられた。 |
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2017年10月30日 (月) 00:29時点における版
アルフォンソ12世 Alfonso XII | |
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スペイン国王 | |
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在位 | 1874年12月29日 - 1885年11月25日 |
全名 | アルフォンソ・フランシスコ・デ・アシス・フェルナンド・ピオ・フアン・マリーア・デ・ラ・コンセプション・グレゴリオ・ペラーヨ・デ・ボルボン・イ・ボルボン |
出生 |
1857年11月28日 スペイン王国、マドリード |
死去 |
1885年11月25日(27歳没) スペイン王国、マドリード、エル・パルド王宮 |
埋葬 |
スペイン、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル、エル・エスコリアル修道院 |
アルフォンソ12世(スペイン語: Alfonso XII、1857年11月28日 - 1885年11月25日)はスペイン王(在位:1875年 - 1885年)。女王イサベル2世と王配フランシスコ・デ・アシス・デ・ボルボンの子。
王配フランシスコが同性愛者であることが知れ渡っていたため、アルフォンソの本当の父親は、近衛兵隊長エンリケ・プイグ・イ・モルトか、フランシスコ・セラーノ将軍のどちらかだという説がある。
生涯
1868年の革命により、イサベル女王と家族はスペインを追われ、パリへ移った。アルフォンソはウィーンで教育を受けた。1870年6月、パリへ呼ばれたアルフォンソは、引退表明した母から後継指名を受けた。その後、アルフォンソはサンドハースト王立陸軍士官学校で軍人の訓練を受けた。1874年、支持者らの支援を得て、スペイン王位奪取を宣言(スペイン王政復古)。その年の終わりに、陸軍元帥セラノはマドリードを離れて、北部連隊を指揮してカルリスタと戦闘を開始した。陸軍准将マルティネス・カンポスは次々と南部を攻略し、王の名においてバレンシアに入城した。アルフォンソは、バルセロナ、バレンシアを経てマドリードにわずか数日で到達、自由憲法の受諾を宣言した。アルフォンソはカルリスタたちに強力な宣伝活動を行い、大叔父モリナ伯ドン・カルロスとその後継者たちへの支持は失速していった[1]。
アルフォンソは君主として統治を学ぶ機会が少なく、実際の在位期間も短かったが、亡命の経験が天性の資質と正当な判断力を磨いた。慈悲深く、思いやりのあるアルフォンソの心根は、大多数の国民の支持を勝ち取った。1885年、アルフォンソは恐れる様子もなく、コレラに見舞われた地域、地震で崩壊した都市を訪問した。また、アルフォンソは特定の政党の手先にならないよう自身を律した[1]。
アルフォンソ12世の統治した期間は、久しぶりにスペインが内政・外交ともに平和であった時期と重なる。経済活動も平常化した。革命の恐れなしに、スペインはアメリカ合衆国との悲惨な戦争を切り抜けることができた[1]。
家族
1878年1月23日、従妹にあたるモンパンシエ公女マリア・デ・ラス・メルセデス(イサベル女王の妹ルイサ・フェルナンダの娘)と結婚した。彼女は結婚から半年後に死去した[1]。
1879年11月29日、遠縁にあたるカール・フェルディナント大公の娘マリア・クリスティーナと結婚した。3子が生まれた。長男のアルフォンソ13世はアルフォンソの死後の誕生である。アルフォンソが死去した時点ではマリア・クリスティーナ王妃が身ごもった子供の性別が分からず、胎児の分娩まではいったん王位を空位としたうえで、長女マリア王女が暫定的な王位継承権第1位の立場につき、生誕した赤子が男児ならその子が直ちに国王に、女児なら長女マリア王女が国王となるように処置がとられた。
- マリア・デ・ラス・メルセデス(1880年 - 1904年) 両シチリア王子カルロ・タンクレーディ(フランチェスコ2世の弟カゼルタ伯アルフォンソの次男)の最初の妃
- マリア・テレサ(1882年 - 1912年) バイエルン王子フェルディナント妃
- アルフォンソ13世(1886年 - 1941年)
オペラ歌手エレナ・サンスとの間に、2人の庶子をもうけた。
脚注
- ^ a b c d Chisholm, Hugh, ed. (1911). . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
- ^ Fallecimiento don Alfonso Sanz
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