「川合玉堂」の版間の差分
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1896年(明治29年)、23歳のとき上京し[[橋本雅邦]]に師事する。[[岡倉天心|岡倉覚三(天心)]]、雅邦、[[横山大観]]らの創立した[[日本美術院]]には1898年(明治31年)当初より参加。1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年([[大正]]4年)からは[[東京美術学校]]日本画科教授、1917年(大正6年)<!--6月11日-->には[[帝室技芸員]]<ref>『官報』第1458号、大正6年6月12日。</ref>に任じられ日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)に[[フランス]]政府から[[レジオンドヌール勲章]]、1933年(昭和8年)には[[ドイツ]]政府から[[名誉章|赤十字第一等名誉章]]を贈られ、1940年(昭和15年)には[[文化勲章]]を受章した。 |
1896年(明治29年)、23歳のとき上京し[[橋本雅邦]]に師事する。[[岡倉天心|岡倉覚三(天心)]]、雅邦、[[横山大観]]らの創立した[[日本美術院]]には1898年(明治31年)当初より参加。1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年([[大正]]4年)からは[[東京美術学校]]日本画科教授、1917年(大正6年)<!--6月11日-->には[[帝室技芸員]]<ref>『官報』第1458号、大正6年6月12日。</ref>に任じられ日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)に[[フランス]]政府から[[レジオンドヌール勲章]]、1933年(昭和8年)には[[ドイツ]]政府から[[名誉章|赤十字第一等名誉章]]を贈られ、1940年(昭和15年)には[[文化勲章]]を受章した。 |
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[[ファイル:Grave of Gyokudo Kawai.jpg|サムネイル|[[多磨霊園]]にある玉堂の墓]] |
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[[第二次世界大戦]]中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた[[東京都]][[西多摩郡]][[三田村 (東京都)|三田村]]御岳(現・[[青梅市]])に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。[[戦後]]も同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、その地で1957年(昭和32年)に死去した。贈[[勲一等旭日大綬章]](没時叙勲)。[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]には1917年(大正6年)頃に建設した別邸「二松庵」があり、横浜市指定の有形文化財として月1回の一般公開もなされていたが<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/kusei/kikaku/gyokudo/ 横浜市 旧川合玉堂別邸 トップページ]</ref>、2013年([[平成]]25年)10月16日に発生した火災により全焼してしまった<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1016/TKY201310160009.html 旧川合玉堂別邸が全焼 横浜・金沢区] [[朝日新聞]] 2013年10月16日</ref>。 |
[[第二次世界大戦]]中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた[[東京都]][[西多摩郡]][[三田村 (東京都)|三田村]]御岳(現・[[青梅市]])に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。[[戦後]]も同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、その地で1957年(昭和32年)に死去した。贈[[勲一等旭日大綬章]](没時叙勲)。[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]]には1917年(大正6年)頃に建設した別邸「二松庵」があり、横浜市指定の有形文化財として月1回の一般公開もなされていたが<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/kanazawa/kusei/kikaku/gyokudo/ 横浜市 旧川合玉堂別邸 トップページ]</ref>、2013年([[平成]]25年)10月16日に発生した火災により全焼してしまった<ref>[http://www.asahi.com/national/update/1016/TKY201310160009.html 旧川合玉堂別邸が全焼 横浜・金沢区] [[朝日新聞]] 2013年10月16日</ref>。 |
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2017年7月21日 (金) 04:07時点における版
川合 玉堂(かわい ぎょくどう、本名:川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)、1873年(明治6年)11月24日 - 1957年(昭和32年)6月30日)は、日本の明治から昭和にかけて活躍した日本画家。
来歴・人物
愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町)に、筆墨紙商の長男として生まれる。12歳頃より絵に親しみ、京都にてはじめ望月玉泉門下、後に幸野楳嶺門下で円山・四条派を学ぶ。「玉堂」と号するのは1890年(明治23年)、17歳のとき。この際「春渓群猿図」「秋渓群鹿図」は第3回内国勧業博覧会に入選している。
1896年(明治29年)、23歳のとき上京し橋本雅邦に師事する。岡倉覚三(天心)、雅邦、横山大観らの創立した日本美術院には1898年(明治31年)当初より参加。1900年(明治33年)頃からは私塾「長流画塾」を主宰、1907年(明治40年)には第1回文部省美術展覧会(文展)審査員に任命され、また1915年(大正4年)からは東京美術学校日本画科教授、1917年(大正6年)には帝室技芸員[1]に任じられ日本画壇の中心的存在の一人となる。1931年(昭和6年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章、1933年(昭和8年)にはドイツ政府から赤十字第一等名誉章を贈られ、1940年(昭和15年)には文化勲章を受章した。
第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)に、かねてより頻繁に写生に訪れていた東京都西多摩郡三田村御岳(現・青梅市)に疎開、住居を「偶庵」、画室を「随軒」と称した。戦後も同地の自然を愛する玉堂はそのまま定住、その地で1957年(昭和32年)に死去した。贈勲一等旭日大綬章(没時叙勲)。神奈川県横浜市金沢区には1917年(大正6年)頃に建設した別邸「二松庵」があり、横浜市指定の有形文化財として月1回の一般公開もなされていたが[2]、2013年(平成25年)10月16日に発生した火災により全焼してしまった[3]。
日本の四季の山河と、そこで生きる人間や動物の姿を美しい墨線と彩色で描くことを得意とした。
玉堂のもとには長野草風、池田輝方、池田蕉園、松本姿水、山内多門ら多くの門人がいた。
玉堂美術館
玉堂は1944年(昭和19年)から死去する1957年(昭和32年)まで東京都青梅市御岳で過ごした。玉堂がその地で愛した御岳渓谷に美術館を設置しようという声があがった。香淳皇后の支援のもと、諸団体、地元有志、ならびに全国の玉堂ファンから多大な寄付を受け、死去後4年を経た1961年(昭和36年)5月に玉堂美術館が開館した[4]。
代表作品
- 「二日月」(1907年、絹本彩色、東京国立近代美術館 蔵)
- 「行く春」(1916年、紙本彩色六曲一双屏風、東京国立近代美術館 蔵、重要文化財)
- 「悠紀主基屏風」(山元春挙との合作、1928年、六曲ニ双屏風、東京国立博物館 管理)
- 「溪山四時図屏風」(1939年、六曲一双屏風、東京国立博物館 蔵)
- 「彩雨」(1940年、絹本彩色、東京国立近代美術館 蔵)
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「二日月」
出典
- ^ 『官報』第1458号、大正6年6月12日。
- ^ 横浜市 旧川合玉堂別邸 トップページ
- ^ 旧川合玉堂別邸が全焼 横浜・金沢区 朝日新聞 2013年10月16日
- ^ “玉堂美美術館概要”. 玉堂美術館. 2016年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月15日閲覧。