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*[http://manabiya.baika.ac.jp/research/yamakawa.html 梅花・山川登美子短歌賞] |
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*[http://www1.city.obama.fukui.jp/obm/tomiko/ 山川登美子記念館オフィシャルサイト] |
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2017年7月7日 (金) 13:40時点における版
山川登美子(やまかわ とみこ、1879年(明治12年)7月19日 - 1909年(明治42年)4月15日)は、歌人である。本名・とみ。
略歴
- 1879年(明治12年)7月19日:福井県遠敷郡竹原村(現小浜市)に生まれる。生家は小浜市の上級藩士の旧家筋。旧姓も山川。
- 1895年(明治28年):大阪のミッションスクール梅花女学校に入学、1897年(明治30年)同校を卒業。
- 1900年(明治33年)4月:母校の研究生となり英語を専修。同年、与謝野鉄幹が創刊した雑誌明星に歌が掲載される。8月には鉄幹と、翌年鉄幹と結婚する与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会う。この頃、「明星」の社友となった。
- 1901年(明治34年):鉄幹を慕っていたが親の勧めた縁組により一族の山川駐七郎と結婚、翌年死別。
- 1904年(明治37年):日本女子大学英文科予備科に入学し1907年(明治40年)3月まで在学。その間、与謝野鉄幹らがおこした新詩社に接近し、「白百合」と題して短歌131首を収載した。
- 1905年(明治38年):晶子らと共著『恋衣』を刊行。
- 1909年(明治42年):夫の駐七郎から感染した結核が元で、生家で死去[1]。29歳。
備考
- 与謝野鉄幹により、「白百合の君」と称される。
- 出身校である梅花女学校(現:梅花女子大学)主催で「梅花・山川登美子短歌賞」が設けられている。
- 生前は合同歌集「恋衣」に参加したのみで個人歌集はないが、2011年に今野寿美編により『山川登美子歌集』(岩波文庫)がまとめられた。
著書
- 『山川登美子全集 上巻 (本文篇)』坂本政親編 光彩社 1972
- 『山川登美子全集 下巻 (研究・資料篇)』1973
- 『山川登美子全集』坂本政親編 文泉堂出版 1994
- 『山川登美子歌集』今野寿美編 岩波文庫、2011
関連書籍
- 津村節子『白百合の崖 山川登美子・歌と恋』新潮社 1983 のち文庫、講談社文芸文庫
- 竹西寛子『山川登美子 「明星」の歌人』講談社 1985
- 白崎昭一郎『山川登美子と明治歌壇』吉川弘文館 1996
- 直木孝次郎『山川登美子と与謝野晶子』塙書房 1996
- 今野寿美『わがふところにさくら来てちる 山川登美子と「明星」』五柳書院 1998
- 『山川登美子私論 清部千鶴子小論集』短歌新聞社 2002
- 『山川登美子の世界 夭折の歌人』安田純生監修 山川登美子倶楽部「しろゆりの会」編 青磁社 2007
- 木村勲『鉄幹と文壇照魔鏡事件 山川登美子及び「明星」異史』国書刊行会 2016
参考
永井一顕「山川登美子 明星で頭角 晶子らと歌集」読売新聞日曜版(13版) 2010年10月10日