「篠原長重 (三好家臣)」の版間の差分
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2017年6月17日 (土) 05:41時点における版
篠原 長重(しのはら ながしげ、天文24年(1555年) - 元亀4年7月16日(1573年8月13日))は戦国時代の武将。三好氏の家臣で阿波国阿波郡秋月城主[1]。篠原長房の子。通称は小字小一郎、孫四郎、大和守。妻は三好実休の娘[2]。
概略
篠原氏は代々、阿波守護代の三好氏に仕え、長重の父・長房の代には若年であった三好家当主・三好長治とその弟である讃岐の十河存保を補佐し、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵した。長重は父と共に各地の合戦に参加し、「手柄中々申しつくしがたし」と賞された[3]。
元亀元年(1570年)10月、長重は摂津に上陸し(野田城・福島城の戦い)、叔父の篠原自遁と連署で本興寺に禁制を発給し[2]、元亀2年(1571年)正月には四国に戻り讃岐の西光寺に、その後、畿内に戻り元亀3年(1572年)12月には山城大山崎の離宮八幡宮にそれぞれ禁制を発給した[2]。
しかし、父の長房と、自遁・長治が不和となり、元亀4年(1573年)5月、長治と十河存保の軍勢が長房の居城である上桜城に押し寄せた(上桜城の戦い)。約2か月の籠城戦の後、篠原長房と長重は、同年7月16日早朝、十河存保の陣を急襲したが敗北し、長重は讃岐香西氏の家臣・植松資久に討ち取られた[4]。享年19[5]。
脚注
参考文献
- 若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』中世武士選書シリーズ17、戒光祥出版、2013年。ISBN 978-4-86403-086-1