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'''殤公'''(しょうこう、紀元前?年 - [[紀元前547年]])は、[[衛]]の第26代君主。[[穆公 (衛)|穆公]]の[[定公 (衛)|定公]]。『[[史記]]』での諱は'''秋'''(しゅう)だが、『[[春秋左氏伝]]』では'''剽'''(ひょう)と表記している。
'''殤公'''(しょうこう、紀元前?年 - [[紀元前547年]])は、[[衛]]の第26代君主。[[穆公 (衛)|穆公]]の姫黒背。『[[史記]]』での諱は'''秋'''(しゅう)だが、『[[春秋左氏伝]]』では'''剽'''(ひょう)と表記している。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
献公5年([[紀元前572年|前572年]])冬、[[献公 (衛)|献公]]は公孫(子叔)<ref>『史記』では秋だが、『左伝』では剽とある。</ref>を魯へ遣わした。
穆公の子として生まれる。


献公18年([[紀元前559年|前559年]])4月、[[大夫]]の[[孫林父]](孫文子)が献公を攻撃して衛から放逐した。孫林父公の弟である公孫を立てて衛君(以降は殤公と表記)とした。放逐された献公は[[斉 (春秋)|斉]]へ逃れ、聚邑に住まわせてもらった。こうして孫林父と[[寧殖]](寧恵子)は衛の相(しょう:[[宰相]])となり、諸侯の命を聞くこととなった。
献公5年([[紀元前572年|前572年]])冬、[[献公 (衛)|献公]]は公孫(子叔)を魯へ遣わした。

献公18年([[紀元前559年|前559年]])4月、[[大夫]]の[[孫林父|孫文子]](林父)が献公を攻撃して衛から放逐した。孫文子先代定公の弟である秋(しゅう)<ref>『史記』では秋だが、『左伝』では公孫剽とある。</ref>を立てて衛君(以降は殤公と表記)とした。放逐された献公は[[斉 (春秋)|斉]]へ逃れ、聚邑に住まわせてもらった。こうして孫林父と[[寧殖]]は衛の相(しょう:[[宰相]])となり、諸侯の命を聞くこととなった。


殤公2年([[紀元前557年|前557年]])3月、殤公は[[晋 (春秋)|晋]]・[[宋 (春秋)|宋]]・[[魯]]・[[鄭]]・[[曹 (春秋)|曹]]・[[莒]]・[[邾]]・[[薛]]・[[杞]]・[[小邾]]の要人たちと溴梁で会合し、盟を結んだ。6月、寧殖は鄭・晋・魯・宋の要人たちと会合し、[[許]]を攻撃した。
殤公2年([[紀元前557年|前557年]])3月、殤公は[[晋 (春秋)|晋]]・[[宋 (春秋)|宋]]・[[魯]]・[[鄭]]・[[曹 (春秋)|曹]]・[[莒]]・[[邾]]・[[薛]]・[[杞]]・[[小邾]]の要人たちと溴梁で会合し、盟を結んだ。6月、寧殖は鄭・晋・魯・宋の要人たちと会合し、[[許]]を攻撃した。
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殤公5年([[紀元前554年|前554年]])夏、孫林父が衛軍を率いて斉を攻撃した。
殤公5年([[紀元前554年|前554年]])夏、孫林父が衛軍を率いて斉を攻撃した。


殤公6年([[紀元前553年|前553年]])6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、寧殖が[[卒去]]し、その後を子の[[寧喜]](悼子)が継いだ。
殤公6年([[紀元前553年|前553年]])6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、寧殖が[[卒去]]し、その後を子の[[寧喜]](悼子)が継いだ。


殤公7年([[紀元前552年|前552年]])冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した<ref>この会合では[[欒盈]]をかくまわないことを相談し合った。</ref>。このとき、斉の[[荘公光|荘公]]と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である[[羊舌キツ|羊舌肸(叔向)]]に注意された。
殤公7年([[紀元前552年|前552年]])冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した<ref>この会合では[[欒盈]]をかくまわないことを相談し合った。</ref>。このとき、斉の[[荘公光|荘公]]と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である[[羊舌キツ|羊舌肸(叔向)]]に注意された。

2017年3月9日 (木) 03:39時点における版

殤公 姫秋
第26代公
王朝
在位期間 紀元前558年 - 紀元前547年
都城 帝丘
姓・諱 姫秋(剽)
諡号 殤公
生年 不詳
没年 紀元前547年
穆公

殤公(しょうこう、紀元前?年 - 紀元前547年)は、の第26代君主。穆公の孫で姫黒背の子。『史記』での諱は(しゅう)だが、『春秋左氏伝』では(ひょう)と表記している。

生涯

献公5年(前572年)冬、献公は公孫秋(子叔)[1]を魯へ遣わした。

献公18年(前559年)4月、大夫孫林父(孫文子)が献公を攻撃して衛から放逐した。孫林父は献公の従弟である公孫秋を立てて衛君(以降は殤公と表記)とした。放逐された献公はへ逃れ、聚邑に住まわせてもらった。こうして孫林父と寧殖(寧恵子)は衛の相(しょう:宰相)となり、諸侯の命を聞くこととなった。

殤公2年(前557年)3月、殤公は小邾の要人たちと溴梁で会合し、盟を結んだ。6月、寧殖は鄭・晋・魯・宋の要人たちと会合し、を攻撃した。

殤公3年(前556年)春、大夫の孫蒯(孫林父の子)は国境を越えて曹隧(曹の地)で狩りをし、重丘(曹の邑)で馬に水を飲まそうとして釣瓶を壊してしまった。それに対して重丘の人が彼の父を罵ったので、その夏に衛の石買と孫蒯は曹を攻撃し、重丘を占領した。

殤公4年(前555年)夏、昨年の件で曹が同盟国である晋に訴えたため、晋は石買と孫蒯を捕えた。10月、殤公は晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・・薛・杞・小邾の君主たちと魯済(魯の地)で会合し、ともに斉を包囲した。

殤公5年(前554年)夏、孫林父が衛軍を率いて斉を攻撃した。

殤公6年(前553年)6月、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと会合し、澶淵(衛の地)で盟を結んだ。この年の冬、寧殖が卒去し、その後を子の寧喜(寧悼子)が継いだ。

殤公7年(前552年)冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾の君主たちと商任(晋の地)で会合した[2]。このとき、斉の荘公と殤公が不敬のふるまいをしたため、晋の大夫である羊舌肸(叔向)に注意された。

殤公8年(前551年)冬、殤公は晋・斉・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・薛・杞・小邾の君主たちと沙随(宋の地)で会合した[3]

殤公9年(前550年)秋、斉が衛を攻撃してきた。

殤公10年(前549年)秋、殤公は晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、ともに斉を討とうとしたが、洪水に遭って勝てなかった(朝歌の戦い)。

殤公11年(前548年)5月、殤公はふたたび晋・宋・魯・鄭・曹・莒・邾・滕・薛・杞・小邾の君主たちと夷儀(衛の地)で会合し、斉を攻撃した。その秋、斉との和約が成立し、諸侯は重丘で盟を結んだ。そのころ、衛の先君である献公が夷儀に入った。

殤公12年(前547年)、先君の献公が何度か寧喜に帰国を求めたため、2月に寧喜と右宰の穀は政敵である孫一族を攻撃し、殤公と太子の角を殺して献公を迎えた[4]

脚注

  1. ^ 『史記』では秋だが、『左伝』では剽とある。
  2. ^ この会合では欒盈をかくまわないことを相談し合った。
  3. ^ この会合では欒盈を閉じ込めることを話し合った。
  4. ^ 『史記』では「孫林父が寧喜に敗れて晋に出奔すると、晋の平公に献公の復位を求めた。これを聞いた斉の景公も献公と共に晋へ赴き、献公の復位を求めた。そこで晋の平公は衛を攻撃して殤公と寧喜を捕え、献公をふたたび衛君の座に就かせた。」とあり、殤公が殺されたとは書いていない。

参考資料