「有馬氏久」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
48行目: 48行目:
== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『[[寛政重修諸家譜]]』巻第四百七十
*『[[寛政重修諸家譜]]』巻第四百七十



{{伊勢西条藩主|2代|1735年 - 1759年}}
{{伊勢西条藩主|2代|1735年 - 1759年}}

{{DEFAULTSORT:ありま うしひさ}}
{{DEFAULTSORT:ありま うしひさ}}
[[Category:摂津有馬氏|うしひさ]]
[[Category:摂津有馬氏|うしひさ]]
[[Category:三河渡辺氏]]
[[Category:三河渡辺氏]]
[[Category:伊勢西条藩主|*02]]
[[Category:伊勢西条藩主|*02]]
[[Category:紀州藩の人物]]
[[Category:紀州藩]]
[[Category:1699年生]]
[[Category:1699年生]]
[[Category:1771年没]]
[[Category:1771年没]]

2016年5月4日 (水) 14:49時点における版

 
有馬 氏久
時代 江戸時代中期
生誕 元禄12年(1699年
死没 明和8年2月26日1771年4月10日
別名 六左衛門
戒名 賢道義英覚源院
墓所 東京都渋谷区広尾の祥雲寺
官位 従五位下、備後守
伊勢西条藩
氏族 摂津有馬氏
父母 父:渡辺泰綱、母:某氏
養父:有馬氏倫
正室:堀親賢の娘
娘(有馬光隆正室のち黒田直亨正室)、娘(倉橋久知室)、光隆氏恒氏房
テンプレートを表示

有馬 氏久(ありま うじひさ)は、江戸時代中期の大名伊勢西条藩の第2代藩主。氏倫系有馬家2代。

生涯

紀州藩渡辺泰綱の子として紀伊国和歌山に生まれ、同藩士有馬氏倫(のちに西条藩初代藩主)の養子となる。父の渡辺恭綱は伊予西条松平家初代松平頼純徳川家康の孫)の長男であるので、氏久は家康の玄孫に当たる。

享保2年(1717年)6月12日、将軍徳川吉宗に初謁する。享保8年(1723年)3月晦日に御小納戸役となる。享保19年(1735年)12月18日、従五位下備後守に叙せられる。なお、この間の享保11年(1726年)、養父の氏倫は加増によって大名に列している。

享保20年(1735年)1月に氏倫の死去により家督を継ぐ。元文元年(1736年)2月3日に正式に遺領を継いで西条藩主となり、伺候席菊間広縁に定められた。元文5年(1740年)6月20日には大番頭となる。宝暦8年(1758年)6月12日に大番頭を辞し、宝暦9年(1759年)6月2日に家督を養嗣子の氏恒に譲って隠居した。明和8年(1771年)2月26日、73歳で死去した。

系譜

正室は堀親賢飯田藩第4代藩主)の娘。『寛政重修諸家譜』には実子として、正室所生の女子2人、側室所生の女子2名と男子2名(幸次郎氏房)を記載している。

延享2年(1745年)、建部政周播磨林田藩第4代藩主)の子・光隆を養嗣子とし、正室所生の長女を娶せたが、寛延2年(1749年)に廃嫡している。養子縁組解消後、長女は黒田直亨上総久留里藩第2代藩主)に再嫁した。

光隆に代わり、寛延2年(1749年)に堀親蔵(信濃飯田藩第6代藩主。正室の兄)の子・氏恒を養嗣子に迎えている。堀家と有馬家との関係は深く、正室所生の次女は外祖母・春台院(津軽信政の娘、堀親賢の正室)の養女となっている(のちに倉橋内匠助久知の室となった)。

宝暦7年(1757年)に実子の氏房が生まれている。氏房はのちに氏恒の養子として家督を継ぎ、第4代藩主となっている。

脚注

参考文献