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== 参考文献 ==
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* [[ルイス・フロイス]]著、[[松田毅一]]・[[川崎桃太]]『完訳フロイス[[日本史]]8 大友宗麟篇III 宗麟の死と嫡子吉統の背教』中央公論社〈中公文庫〉、2000年。ISBN 4-12-203587-2
* [[ルイス・フロイス]]著、[[松田毅一]]・[[川崎桃太]]『完訳フロイス[[日本史]]8 大友宗麟篇III 宗麟の死と嫡子吉統の背教』中央公論社〈中公文庫〉、2000年。ISBN 4-12-203587-2
* [[児玉幸多]]・[[坪井清足]]監修『[[日本城郭大系]] 第16巻 大分・宮崎・愛媛』[[新人物往来社]]、1980年。

* [[外山幹夫]] 『大友宗麟(人物叢書)』 吉川弘文館 1988年。ISBN 978-4642051392
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2015年12月12日 (土) 10:01時点における版

 
志賀親次
時代 安土桃山時代
生誕 永禄9年(1566年
死没 不明
改名 太郎(幼名)→親次
別名 親善、少左衛門尉・湖左衛門尉(通称)
霊名 ドン・パウロ
主君 大友義鎮(宗麟)義統豊臣秀吉福島正則小早川秀秋細川忠興
氏族 志賀氏
父母 父:志賀親度、母:大友宗麟娘
兄弟 親次左門
親勝
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志賀 親次(しが ちかつぐ)は、安土桃山時代武将大友氏の家臣。北志賀家・志賀親度の子。豊後国岡城主。

生涯

豊後の大友氏の家臣・志賀親度の子として誕生。北志賀家は大友三家の一角である志賀氏の嫡流であり、祖父親守や父親度の時代には南郡衆の筆頭であった。

親次は武勇に優れ、母が大友宗麟の娘ということもあって重用された。天正12年(1584年)7月、黒木家永の守る猫尾城攻めに参加。同年9月に父親度が主君義統と不和になって失脚すると、19歳の若さで家督を継ぐことを命じられた。翌13年(1585年)にはキリシタンとなり、ドン=パウロという洗礼名を得ている。

天正14年(1586年)、薩摩国島津氏豊後国に侵攻して来ると(豊薩合戦)、父親度や他の南郡衆が島津氏に味方する中で、親次は居城・岡城に立て籠もって徹底抗戦し、島津義弘新納忠元が指揮する島津方の大軍を寡兵で何度も撃退した。豊臣秀長の援軍が豊後に上陸すると、反乱した南郡衆を滅ぼし父を自刃させる。この戦いで見事な采配を振るった親次に対し、豊臣秀吉に厚く絶賛され、敵将の島津義弘からも「天正の楠木」と絶賛された。

その後は祖父親守の後見を受け[註 1]、岡城を拠点に日田にも所領を拡大し、島津侵攻で多くの家臣を失った大友氏家中において、抜群の武功で名を上げかつ名族でもある親次は発言力を強めていたようである[註 2]。ところが、こうしたことから主君・吉統(義統)からはかえって疎まれることになった。なかでも、宗麟の死後にキリスト教は禁教とされるも、親次は棄教を拒否し豊後におけるキリシタンの事実上の保護者となっていたが[註 3]、親次が義乗の大阪訪問に随行中に吉統によって宣教師達は豊後から追放される仕打ちをうけている。

天正20年(1592年)の文禄の役に参陣したとき、誤報を信じたため戦況を見誤り撤退を義統に進言してしまい[註 4]、これを敵前逃亡とみなした豊臣秀吉の怒りに触れて、大友氏は改易され親次も所領を失った。なお、「フロイス日本史」の大友氏に関する記述は、このときに親次が仕官先を求めて上京するところで終わっている。

その後は、秀吉や福島正則小早川秀秋細川忠興にそれぞれ仕えた。子孫は熊本藩士として明治まで続いたという。

脚注

註釈

  1. ^ 大友宗麟の葬儀には祖父を代理として出席させている。
  2. ^ 義統の嫡子・義乗が秀吉に謁見に行く際に随行した3名の重臣に選ばれている。また秀吉は親次を重臣筆頭の田原紹忍より上座に座らせて豊薩合戦における親次の功績を激賞し、さらに一行のうち義乗以外では親次のみを淀城での食事に招待した(紹忍らは外で待機させられた)
  3. ^ ルイス・フロイスは親次を徹底的に好意的に描いており、『日本史』の大友氏関連の記事は、大友氏改易後に志賀親次が仕官先を求めて上京したこと、そして“ドン・パウロ(親次)が元どおり領主に収まることは不可能と思われるものの、(中略)我らは彼が、他の地において老関白から俸禄が与えられるのではないかと期待している”という記述で締めくくられている。
  4. ^ 異説として、『大友興廃記』などでは他の人物が進言したとする。また、外山幹夫などは九州征伐で親次が活躍した事を妬んだ人物の中傷の可能性が高く、親次が主体となって撤退を進言したとする説に異論を唱えている。

出典

参考文献