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12歳で家を継ぎ、[[天明]]元年([[1781年]])に34歳で家老に任じられる。家老に任じられたとき、会津藩は[[天明の大飢饉]]であり、財政も窮乏化していた。玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して辞職。その間兵学や経済などについて研鑽、研究して一年後復権の際に藩政の大改革「天明の大改革」を提言し大きな成果をあげるとともに、藩校「[[日新館]]」を創設した。会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。会津藩が樺太出兵の最中に61歳でこの世を去った。遺言に「我が骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と言った。墓はそれらを見渡せる小田山の山頂にある。 |
12歳で家を継ぎ、[[天明]]元年([[1781年]])に34歳で家老に任じられる。家老に任じられたとき、会津藩は[[天明の大飢饉]]であり、財政も窮乏化していた。玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して辞職。その間兵学や経済などについて研鑽、研究して一年後復権の際に藩政の大改革「天明の大改革」を提言し大きな成果をあげるとともに、藩校「[[日新館]]」を創設した。会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。会津藩が樺太出兵の最中に61歳でこの世を去った。遺言に「我が骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と言った。墓はそれらを見渡せる小田山の山頂にある。 |
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[[文化 (元号)|文化]]5年([[1808年]])、[[樺太]]での[[会津藩の北方警備]]の最中、死去。墓所は、遺言により小田山の山頂にある。 |
[[文化 (元号)|文化]]5年([[1808年]])、[[樺太]]での[[会津藩の北方警備]]の最中、死去。墓所は、遺言により小田山の山頂にある。 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[田中正玄]] |
* [[田中正玄]]会津藩田中氏の家祖 |
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* [[田中土佐]] |
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* [[田中清玄]] |
* [[田中清玄]] |
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2015年9月5日 (土) 02:25時点における版
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛延元年10月8日(1748年10月29日) |
死没 | 文化5年8月7日(1808年9月26日) |
改名 | 玄堅→玄宰 |
別名 | 小三郎、加兵衛、三郎兵衛(通称)、東藩の名臣(渾名(あだな)) |
墓所 | 小田山山頂 |
主君 | 松平容頌、松平容住、松平容衆 |
藩 | 会津藩 |
氏族 | 田中氏 |
父母 | 田中玄興 |
妻 | 正室:一瀬直寛の娘 |
子 | 玄成、玄古 |
田中 玄宰(たなか はるなか)は、江戸時代の会津藩の家老で三代の藩主に仕えた名宰相である。会津藩名家老田中正玄(まさはる)四世の孫。通称は小三郎、加兵衛、三郎兵衛。
12歳で家を継ぎ、天明元年(1781年)に34歳で家老に任じられる。家老に任じられたとき、会津藩は天明の大飢饉であり、財政も窮乏化していた。玄宰は藩主容頌に領民の救済と藩政の改革を願い出たが受け入れられず、一時病と称して辞職。その間兵学や経済などについて研鑽、研究して一年後復権の際に藩政の大改革「天明の大改革」を提言し大きな成果をあげるとともに、藩校「日新館」を創設した。会津藩が文武ともに天下の雄藩となる基礎を築いた。会津藩が樺太出兵の最中に61歳でこの世を去った。遺言に「我が骨は鶴ヶ城と日新館の見えるところに埋めよ」と言った。墓はそれらを見渡せる小田山の山頂にある。
文化5年(1808年)、樺太での会津藩の北方警備の最中、死去。墓所は、遺言により小田山の山頂にある。
家督は長男玄成が相続するも早世し、一瀬家の養子となっていた次男・玄古が帰家してその跡を相続した。
隣藩・白河藩主で老中もつとめた松平定信は、家臣に対し「会津の田中三郎兵衛に笑われることなかれ」と訓戒するほど、玄宰を高く評価していた。
田中玄宰をあつかった作品
- 中村彰彦『花ならば花咲かん』(PHP研究所)