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1920年に、[[チェコスロヴァキア]]の[[プラハ]]で亡命ウクライナ人によって反ポーランド組織、[[ウクライナ軍事組織]](UVO)が結成され[[イェヴヘーン・コノヴァーレツィ]](Євген Коновалець)が指導者となったが1929年には、学生組織と合同して新たに「ウクライナ民族主義者組織」となった。OUNは、一時2万人の組織員を抱え、ポーランドやソ連の要人の暗殺、政府施設の破壊などの武力闘争を行うとともに、さまざまな宣伝活動や啓蒙活動も行った。しかし、コノヴァーレツィが暗殺されると組織はアンドリーイ・メーリヌィク(Андрій Мельник)の派閥と[[ステパーン・バンデーラ]]の派閥とに分裂し互いに武力闘争をおこなった。[[独ソ戦]]が開始しドイツ軍がウクライナを占領すると両派とも当初は歓迎した。だが、1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは両派の指導者を逮捕し武力でこれを押さえ込もうとした。組織は地下に潜り1942年に組織された[[ウクライナ蜂起軍]](UPA)のもとに再び集結し、ドイツ軍とソ連軍双方に対する激しい[[パルチザン]]活動を行った。
1920年に、[[チェコスロヴァキア]]の[[プラハ]]で亡命ウクライナ人によって反ポーランド組織、[[ウクライナ軍事組織]](UVO)が結成され[[イェヴヘーン・コノヴァーレツィ]]([[:uk:Коновалець Євген Михайлович|Євген Коновалець]])が指導者となったが1929年には、学生組織と合同して新たに「ウクライナ民族主義者組織」となった。OUNは、一時2万人の組織員を抱え、ポーランドやソ連の要人の暗殺、政府施設の破壊などの武力闘争を行うとともに、さまざまな宣伝活動や啓蒙活動も行った。しかし、コノヴァーレツィが暗殺されると組織はアンドリーイ・メーリヌィク([[:uk:Мельник Андрій Атанасович|Андрій Мельник]])の派閥と[[ステパーン・バンデーラ]]の派閥とに分裂し互いに武力闘争をおこなった。[[独ソ戦]]が開始しドイツ軍がウクライナを占領すると両派とも当初は歓迎した。だが、1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは両派の指導者を逮捕し武力でこれを押さえ込もうとした。組織は地下に潜り1942年に組織された[[ウクライナ蜂起軍]](UPA)のもとに再び集結し、ドイツ軍とソ連軍双方に対する激しい[[パルチザン]]活動を行った。


日本とは1930年代に[[満州]]の亡命ウクライナ人を通じて接触があったが軍部が白系ロシア人の[[ロシアファシスト党]]を支援するようになると打ち切られた。
日本とは1930年代に[[満州]]の亡命ウクライナ人を通じて接触があったが軍部が白系ロシア人の[[ロシアファシスト党]]を支援するようになると打ち切られた。

2015年7月25日 (土) 12:43時点における版

ウクライナ民族主義者組織
独ソ戦に参加

メーリヌィク派の旗(上)とバンデーラ派の旗(下)
活動期間 1929年-1950年代
活動目的 反ソ・反ポーランドのウクライナ独立
指導者 イェヴヘーン・コノヴァーレツィ
活動地域 西ウクライナ
前身 ウクライナ軍事組織
後継 ウクライナ蜂起軍
関連勢力 日本軍
ウクライナ人民共和国亡命政府
敵対勢力 ナチス
ソ連
ポーランド第二共和国
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ウクライナ民族主義者組織ウクライナ語Організація Українських Націоналістів英語:Organization of Ukrainian Nationalists、OUN とも)は、ウクライナに存在した反体制武装組織。1929年1月28日にオーストリアのウィーンで結成[1]

概要

1920年に、チェコスロヴァキアプラハで亡命ウクライナ人によって反ポーランド組織、ウクライナ軍事組織(UVO)が結成されイェヴヘーン・コノヴァーレツィ(Євген Коновалець)が指導者となったが1929年には、学生組織と合同して新たに「ウクライナ民族主義者組織」となった。OUNは、一時2万人の組織員を抱え、ポーランドやソ連の要人の暗殺、政府施設の破壊などの武力闘争を行うとともに、さまざまな宣伝活動や啓蒙活動も行った。しかし、コノヴァーレツィが暗殺されると組織はアンドリーイ・メーリヌィク(Андрій Мельник)の派閥とステパーン・バンデーラの派閥とに分裂し互いに武力闘争をおこなった。独ソ戦が開始しドイツ軍がウクライナを占領すると両派とも当初は歓迎した。だが、1941年6月にウクライナ独立国の独立を宣言した際には、ドイツは両派の指導者を逮捕し武力でこれを押さえ込もうとした。組織は地下に潜り1942年に組織されたウクライナ蜂起軍(UPA)のもとに再び集結し、ドイツ軍とソ連軍双方に対する激しいパルチザン活動を行った。

日本とは1930年代に満州の亡命ウクライナ人を通じて接触があったが軍部が白系ロシア人のロシアファシスト党を支援するようになると打ち切られた。

脚注

  1. ^ 中井 1998:040.

参考文献

  • (日本語) 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
  • (日本語) 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
  • (日本語)中井和夫著 『ウクライナ・ナショナリズム』東京大学出版会、1998年.

外部リンク