「ウィレム2世 (ホラント伯)」の版間の差分
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*[[菊池良生]]『神聖ローマ帝国』[[講談社現代新書]]、2003年 |
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2014年2月2日 (日) 05:49時点における版
ウィレム2世(Willem II, 1227年 - 1256年1月28日)は、ホラント伯(在位:1234年 - 1256年)及びドイツ王(ドイツ名:ヴィルヘルム・フォン・ホーラント Wilhelm von Holland, 在位:1247年 - 1256年、1254年まで対立王)。神聖ローマ帝国の大空位時代における名目上の君主の一人であり、1254年の公式文書に「神聖ローマ帝国」の国号を正式に用いた最初の君主でもある。
父はホラント伯フロリス4世、母はブラバント公アンリ1世の娘マティルド。
1247年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の対立王テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペが死去した後、諸侯と教皇インノケンティウス4世によって新たな対立王に選出された。
1250年にフリードリヒ2世、1254年にコンラート4世が死亡して単独のドイツ王になったが、1256年冬、フリースラントへの遠征中に戦死した[1]。ウィレムの死によってドイツは君主不在の混乱が発生した。
1252年1月25日、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公オットー1世の娘エリーザベトと結婚し、フロリス5世のみが生まれた。ウィレム2世の死後、ホラントは2歳に満たないフロリス5世が継いだ。
脚注
- ^ ある説では、ウィレム2世は指揮中に誰も気づかないうちに、馬もろとも凍結した沼に落ちてそのまま溺死し、その遺体が発見されたのが26年後だったと伝わる。
参照文献
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