「三宝院」の版間の差分
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2013年11月25日 (月) 05:05時点における版
三宝院(さんぼういん、旧字体:三寳院)とは、京都市 伏見区 醍醐にある醍醐寺の塔頭。真言宗醍醐派に属し、修験道 当山派 本山。
沿革
永久3年(1115年)、左大臣 源俊房の子で醍醐寺14代座主 勝覚が開く。当初は灌頂院(かんちょういん)といったが、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。康治2年(1143年)に鳥羽上皇の御願寺となっている。
鎌倉から南北朝時代にかけて、成賢(7世)・憲深(11世)・賢俊(21世)と高僧を輩出し、足利尊氏から厚く保護された。特に足利義満の猶子となった25世満済は、応永3年(1396年)に醍醐寺座主に任じられ、続いて准三后となり、後には足利義教の室町幕府将軍擁立にも活躍したため、「黒衣の宰相」と呼ばれた。以後、歴代院主が醍醐寺座主を兼ねる慣例が成立する。また、古くから醍醐寺は真言宗系の修験の中心であったが、この頃から三宝院が真言宗系の修験者・山伏の取締にあたるようになる。
ところが、応仁の乱で三宝院が焼失してしまい、廃寺同然となるが、安土桃山時代に醍醐寺金剛輪院の院主であった義演が豊臣秀吉の信頼が厚く、金剛輪院を中心に有名な「醍醐の花見」が開かれた。義演は准三后となり、秀吉の許可を得て三宝院32世を名乗り、金剛輪院を三宝院と改称した。桜で有名な醍醐寺三宝院庭園はその時期に整備された。義演は徳川家康からも信任を受け、江戸時代初期の天台宗系修験道である本山派本山の聖護院との相論では江戸幕府の支援を受けて、慶長18年(1613年)に修験道法度が制定された。
明治4年(1871年)、廃仏毀釈の影響で門跡号を差し止められるが、14年後に復称する。現在では、真言宗醍醐派総本山としての醍醐寺の宗務事務所が三宝院内に設置され、醍醐派管長・醍醐寺座主・三宝院門跡の三職を兼務する事が定められている。現在は仲田順和が在任している。
伽藍
- 唐門 - 国宝、1599年建立
- 表書院 - 国宝
- 本堂 - 重要文化財、快慶作の弥勒菩薩を安置
- 純浄観 - 重要文化財、桃山時代移築
- 奥宸殿 - 重要文化財、江戸時代初期建立
- 豊国大明神 - 庭の背後の小さな社。秀吉の神霊を祀る。
- 枕流亭 - 茶室
- 松月亭 - 茶室、江戸時代末期建立
文化財
- 国宝 -
- 表書院 - 醍醐の花見の際に奈良から移された能の楽屋を再移転し、中門を付加するなど書院造風に整えたもの。
- 唐門 - 平唐門、こけら葺、黒漆塗り。正面扉に金箔の桐紋、その脇に菊紋を張り付けるいかにも桃山期らしい豪壮な門。平成23年に行われた解体修理の結果、遺された墨書などから本来三宝院のために造られたものでなく、他の場所に建立する予定のものが何らかの事情によりここに建立されたと推測される。北政所の寄進、前田玄以の奉行により建立されたとの伝承もある。従来は漆塗りが劣化して寂びた味わいを醸し出していたが、平成23年の修理の結果黒漆が施されて、印象は一新された。
- 特別名勝
- 特別史跡
- 醍醐寺三宝院庭園
- 重要文化財