「土井利延」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{基礎情報 武士
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 土井利延
| 氏名 = 土井 利延
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 時代 = [[江戸時代]]中期
| 生誕 = [[享保]]8年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]([[1723年]][[12月14日]])
| 生誕 = [[享保]]8年[[11月17日 (旧暦)|11月17日]]([[1723年]][[12月14日]])
17行目: 17行目:
| 兄弟 = '''利延'''、[[土井利里|利里]]
| 兄弟 = '''利延'''、[[土井利里|利里]]
| 妻 = なし
| 妻 = なし
| 子 = 養子:'''''[[土井利里]]'''''
| 子 = 養子:'''''[[土井利里|利里]]'''''
| 特記事項 =
| 特記事項 =
}}
}}


'''土井 利延'''(どい としのぶ)は、[[肥前国|肥前]][[唐津藩]]の第3代[[藩主]]。土井家宗家7代。
'''土井 利延'''(どい としのぶ)は、[[肥前国|肥前]][[唐津藩]]の第3代藩主。土井家宗家7代。


享保8年(1723年)、分家で5000石を領した大身[[旗本]]土井利清の長男として生まれる。唐津藩の第2代藩主である土井利実の長男であった[[土井利武]]が享保18年([[1733年]])に早世したため、利実の[[養子]]として迎えられる。[[元文]]元年([[1736年]])、利実の死去により[[家督]]を継いで第3代藩主となる
享保8年(1723年)、分家で5000石を領した大身[[旗本]][[土井利清]]の長男として生まれる。唐津藩の代藩主である[[土井利実]]の長男[[土井利武|利武]]が享保18年([[1733年]])に早世したため、利実の養子として迎えられる。[[元文]]元年([[1736年]])、利実の死去により[[家督]]を継


元文2年([[1737年]])12月、従五位下・大炊頭に叙位・任官する。しかし幼少のため、家老の[[土井内蔵]]が政務を代行した。延享元年(1744年)に死去。享年22。
元文2年([[1737年]])12月、従五位下・大炊頭に叙位・任官する。しかし幼少のため、家老の[[土井内蔵]]が政務を代行した。延享元年(1744年)に死去した。享年22。跡を弟で養子の[[土井利里|利里]]が継いだ


{{唐津藩主|土井氏|3代|1736 - 1744}}
跡を弟で養子の土井利里が継いだ。

{{唐津藩主|土井氏|3代|1736 - 1744}}


{{DEFAULTSORT:とい としのふ}}
{{DEFAULTSORT:とい としのふ}}
[[Category:土井氏|としのふ]]
[[Category:土井氏|としのふ]]
[[Category:江戸の大名]]
[[Category:唐津藩主]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:譜代大名]]
[[Category:1723年生]]
[[Category:1723年生]]

2013年10月27日 (日) 00:21時点における版

 
土井 利延
時代 江戸時代中期
生誕 享保8年11月17日1723年12月14日
死没 延享元年7月17日1744年8月24日
改名 弁之助(幼名)、利延
戒名 諦了院殿前大倉令真誉寂照堪然大居士
墓所 佐賀県唐津市の神田岡口
佐賀県唐津市西十人町の来迎寺
官位 従五位下、大炊頭
幕府 江戸幕府
肥前国唐津藩
氏族 土井氏
父母 父:土井利清、母:土井利益の娘
養父:土井利実
兄弟 利延利里
なし
養子:利里
テンプレートを表示

土井 利延(どい としのぶ)は、肥前唐津藩の第3代藩主。土井家宗家7代。

享保8年(1723年)、分家で5000石を領した大身旗本土井利清の長男として生まれる。唐津藩の先代藩主である土井利実の長男の利武が享保18年(1733年)に早世したため、利実の養子として迎えられる。元文元年(1736年)、利実の死去により家督を継ぐ。

元文2年(1737年)12月、従五位下・大炊頭に叙位・任官する。しかし幼少のため、家老の土井内蔵が政務を代行した。延享元年(1744年)に死去した。享年22。跡を弟で養子の利里が継いだ。