「サンドウィッチ伯爵」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
編集の要約なし
10行目: 10行目:
初代伯は、著名な[[モンタギュー家]]の一員であり、初代[[モンタギュー・オブ・ボウトン男爵]][[エドワード・モンタギュー (初代モンタギュー・オブ・ボウトン男爵)|エドワード・モンタギュー]]([[モンタギュー公爵]]家の祖)や初代[[マンチェスター伯爵]][[ヘンリー・モンタギュー (初代マンチェスター伯爵)|ヘンリー・モンタギュー]]([[マンチェスター公爵]]家の祖)らの末弟であるサー・[[シドニー・モンタギュー]]の息子であった。陸軍の歩兵士官であったが、[[清教徒革命]]の際に[[円頂党|議会派]]に属したことから第一次[[英蘭戦争]]では海軍の新設称号であるジェネラル・アット・シー(General at Sea)<ref>革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた。</ref>として[[イングランド共和国]]艦隊を指揮した。
初代伯は、著名な[[モンタギュー家]]の一員であり、初代[[モンタギュー・オブ・ボウトン男爵]][[エドワード・モンタギュー (初代モンタギュー・オブ・ボウトン男爵)|エドワード・モンタギュー]]([[モンタギュー公爵]]家の祖)や初代[[マンチェスター伯爵]][[ヘンリー・モンタギュー (初代マンチェスター伯爵)|ヘンリー・モンタギュー]]([[マンチェスター公爵]]家の祖)らの末弟であるサー・[[シドニー・モンタギュー]]の息子であった。陸軍の歩兵士官であったが、[[清教徒革命]]の際に[[円頂党|議会派]]に属したことから第一次[[英蘭戦争]]では海軍の新設称号であるジェネラル・アット・シー(General at Sea)<ref>革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた。</ref>として[[イングランド共和国]]艦隊を指揮した。


[[王政復古]]の際は地方に隠遁していたが、先任のジェネラル・アット・シーであった[[スコットランド王国|スコットランド]]駐留軍司令官の[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]]([[:en:George Monck, 1st Duke of Albemarle|George Monck]])に従って王党派に転じ、艦隊を率いて[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]を出迎えた。その功により初代サンドウィッチ伯爵に叙された。初代伯に仕えていた[[サミュエル・ピープス]]はエドワードの隠遁中ロンドンに残り、議会の情勢を報告してエドワードの決断を助けた。そして、ピープスも初代伯の推薦により出世のきっかけをつかんだ。その後、エドワードは第二次英蘭戦争でも艦隊を率いたが、公費乱用の疑惑から転任させられた。第三次英蘭戦争では再び艦隊の指揮を執ったが、[[ソールベイの海戦]]に於いて戦死した。
[[王政復古]]の際は地方に隠遁していたが、先任のジェネラル・アット・シーであった[[スコットランド王国|スコットランド]]駐留軍司令官の[[ジョージ・マンク (初代アルベマール公)|ジョージ・マンク]]に従って王党派に転じ、艦隊を率いて[[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]]を出迎えた。その功により初代サンドウィッチ伯爵に叙された。初代伯に仕えていた[[サミュエル・ピープス]]はエドワードの隠遁中ロンドンに残り、議会の情勢を報告してエドワードの決断を助けた。そして、ピープスも初代伯の推薦により出世のきっかけをつかんだ。その後、エドワードは第二次英蘭戦争でも艦隊を率いたが、公費乱用の疑惑から転任させられた。第三次英蘭戦争では再び艦隊の指揮を執ったが、[[ソールベイの海戦]]に於いて戦死した。


[[エドワード・モンタギュー (第2代サンドウィッチ伯爵)|2代伯]]は初代伯の息子で、[[ドーバー (イギリス)|ドーバー]]選出の[[庶民院]]議員、[[在ポルトガルイギリス大使]]、ハンティンドンシャーや[[カンブリッジシャー]]の[[統監]]({{interlang|en|Lord Lieutenant}}; [[知事]])を務めた。彼が没すると息子の[[エドワード・モンタギュー (第3代サンドウィッチ伯爵)|エドワード]]が3代伯となった。3代伯は息子よりも長生きしたため、孫の[[ジョン・モンタギュー (第4代サンドウィッチ伯爵)|ジョン]]が4代伯となった。
[[エドワード・モンタギュー (第2代サンドウィッチ伯爵)|2代伯]]は初代伯の息子で、[[ドーバー (イギリス)|ドーバー]]選出の[[庶民院]]議員、[[在ポルトガルイギリス大使]]、ハンティンドンシャーや[[カンブリッジシャー]]の[[統監]]({{interlang|en|Lord Lieutenant}}; [[知事]])を務めた。彼が没すると息子の[[エドワード・モンタギュー (第3代サンドウィッチ伯爵)|エドワード]]が3代伯となった。3代伯は息子よりも長生きしたため、孫の[[ジョン・モンタギュー (第4代サンドウィッチ伯爵)|ジョン]]が4代伯となった。

2013年2月25日 (月) 14:53時点における版

サンドウィッチ伯の紋章

サンドウィッチ伯爵サンドイッチ伯爵: Earl of Sandwich)は、イギリス伯爵位。イングランドスコットランド合同前に叙位されたイングランド貴族である。1660年にサー・エドワード・モンタギューが受爵されたことに始まる。彼は同時にハンティンドン・カウンティにあるセント・ネオーツモンタギュー男爵Baron Montagu, of St Neots in the County of Huntingdon)およびヒンチンブルック子爵Viscount Hinchingbrooke; ヒンチングブルーク/ヒンチングブルック)にも叙されたため、サンドウィッチ伯位にはこの2つの爵位(ともにイングランド貴族)が付属する。伯位の法定推定相続人儀礼称号としてヒンチンブルック子爵と称する。

サンドウィッチ伯爵家の邸宅はドーセット州のマパートンにある。また17世紀から1960年代まではハンティンドンシャーヒンチンブルック・ハウスも所有していた。なお従属称号のヒンチンブルック子爵はこれに由来する。伯爵家のいくつかの歴史的文書とヒンチンブルックの財産は、ハンティンドンの公文書館であるCambridgeshire Archives and Local Studiesが所持している。

サンドウィッチ伯爵は1999年の貴族院法成立後も議席を保つ90人の世襲貴族院議員の一人で、中立議員Crossbencher; 無所属議員)である。

歴史

初代サンドウィッチ伯エドワード・モンタギュー(サー・ピーター・レリー画、1666年

初代伯は、著名なモンタギュー家の一員であり、初代モンタギュー・オブ・ボウトン男爵エドワード・モンタギューモンタギュー公爵家の祖)や初代マンチェスター伯爵ヘンリー・モンタギューマンチェスター公爵家の祖)らの末弟であるサー・シドニー・モンタギューの息子であった。陸軍の歩兵士官であったが、清教徒革命の際に議会派に属したことから第一次英蘭戦争では海軍の新設称号であるジェネラル・アット・シー(General at Sea)[1]としてイングランド共和国艦隊を指揮した。

王政復古の際は地方に隠遁していたが、先任のジェネラル・アット・シーであったスコットランド駐留軍司令官のジョージ・マンクに従って王党派に転じ、艦隊を率いてチャールズ2世を出迎えた。その功により初代サンドウィッチ伯爵に叙された。初代伯に仕えていたサミュエル・ピープスはエドワードの隠遁中ロンドンに残り、議会の情勢を報告してエドワードの決断を助けた。そして、ピープスも初代伯の推薦により出世のきっかけをつかんだ。その後、エドワードは第二次英蘭戦争でも艦隊を率いたが、公費乱用の疑惑から転任させられた。第三次英蘭戦争では再び艦隊の指揮を執ったが、ソールベイの海戦に於いて戦死した。

2代伯は初代伯の息子で、ドーバー選出の庶民院議員、在ポルトガルイギリス大使、ハンティンドンシャーやカンブリッジシャー統監Lord Lieutenant; 知事)を務めた。彼が没すると息子のエドワードが3代伯となった。3代伯は息子よりも長生きしたため、孫のジョンが4代伯となった。

第4代サンドウィッチ伯ジョン・モンタギュートマス・ゲインズバラ画、1783年)

4代伯は著名な政治家で、海軍卿First Lord of the Admiralty)や北部担当国務大臣Secretary of State for the Northern Department)を務めた。彼はジェームズ・クックの探検航海を支援したことでも知られ、ハワイ諸島の旧名「サンドウィッチ諸島」や南大西洋サウスサンドウィッチ諸島は彼を記念して名付けられたものである。また料理のサンドイッチも彼にちなむとされる。

5代伯は4代伯の息子で、ブラックレイハンティンドンシャー選出の庶民院議員、王室副侍従長Vice-Chamberlain of the Household)、Master of the Buckhoundsを務めた。

6代伯は5代伯の息子で、ハンティンドンシャー選出庶民院議員を務めた。

7代伯は6代伯の息子で、ハンティンドンシャー選出庶民院議員のほか、保守党の第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー第1次内閣ジェントルマン・アット・アームスの隊長(Captain of the Honourable Corps of Gentlemen-at-Arms)として、第2次内閣Master of the Buckhoundsとして公職にあり、加えてハンティンドンシャー統監でもあった。

8代伯は7代伯の長男で、ハンティンドン選出の保守党所属庶民院議員やハンティンドンシャー統監を務めた。彼は生涯未婚で子がなかったため、弟のヴィクター・アレグザンダー・モンタギュー海軍少将の息子であるジョージが9代伯となった。9代伯も先祖と同様ハンティンドン選出庶民院議員やハンティンドンシャー統監を務めた。

9代伯の長男は、1941年から1962年まで南ドーセット選出の保守党庶民院議員を務めていた。そして父が死去すると、庶民院議員を辞職して襲爵、貴族院議員となった。彼は1964年に爵位を放棄したが、庶民院に戻ることはなかった。

現在伯位を保持しているのは10代伯の長男で11代目のジョン1995年に襲爵した。ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートダウンタウン・ディズニーに、Earl of Sandwich (サンドウィッチ伯)というサンドイッチ店を開業している。

サンドウィッチ伯爵(1660年)

脚注

  1. ^ 革命の際、議会派に積極的に加わった提督が殆ど居らず、イングランド共和国では海軍を指揮する人材が不足したため、議会派の大佐クラスの陸軍軍人をジェネラル・アット・シーに任命し、艦隊の指揮をさせた。この制度は王政復古後も暫く続いた。