「レオポルト6世 (オーストリア公)」の版間の差分
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'''レオポルト6世'''(Leopold VI., [[1176年]] - [[1230年]][[6月28日]])は、[[バーベンベルク家]]の第4代[[オーストリア君主一覧|オーストリア公]](在位:[[1198年]] - 1230年)。第2代オーストリア公[[レオポルト5世 (オーストリア公)|レオポルト5世]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー]]王[[ゲーザ2世]]の娘イロナの次男で、第3代オーストリア公[[フリードリヒ1世 (オーストリア公)|フリードリヒ1世]]の弟。 |
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[[1194年]]に父が事故死した後は長兄のフリードリヒ1世がオーストリア公位を継ぎ、自らは[[シュタイアーマルク伯]]となった。しかし兄が1198年に嗣子無く陣没したため、オーストリア公位を継いだ。 |
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即位後は、自らの権力強化を狙って支配下における貴族・領主層を圧迫し、様々な理由をつけては荘園を没収した。その一方で父が[[教皇]]に[[破門]]されて以来の教会との関係修復を図って、自ら[[第5回十字軍]]に参加したり異教徒を積極的に弾圧したりした。[[1215年]]に[[神聖ローマ帝国]]で[[ヴェルフ家]]の[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]と[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]による継承争いが起こると、フリードリヒ2世に協力してその勝利に貢献した。これによりホーエンシュタウフェン家と親密となり、フリードリヒ2世の長男 |
即位後は、自らの権力強化を狙って支配下における貴族・領主層を圧迫し、様々な理由をつけては荘園を没収した。その一方で父が[[教皇]]に[[破門]]されて以来の教会との関係修復を図って、自ら[[第5回十字軍]]に参加したり異教徒を積極的に弾圧したりした。[[1215年]]に[[神聖ローマ帝国]]で[[ヴェルフ家]]の[[オットー4世 (神聖ローマ皇帝)|オットー4世]]と[[ホーエンシュタウフェン朝|ホーエンシュタウフェン家]]の[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]による継承争いが起こると、フリードリヒ2世に協力してその勝利に貢献した。これによりホーエンシュタウフェン家と親密となり、フリードリヒ2世の長男[[ハインリヒ7世 (ドイツ王)|ハインリヒ7世]]に娘を嫁がせて神聖ローマ帝国と友好関係を保つ一方、その文化の導入や交易などで様々な利益を上げた。また、[[ウィーン]]の整備・拡張にも積極的で、現在におけるウィーンの基礎はこの時代に築かれている。このように内政・外交で多くの成果を挙げて、バーベンベルク家の全盛期が築かれた。 |
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1230年に急病で死去した。[[享年]]55。長男と次男は早世のため、三男の[[フリードリヒ2世 (オーストリア公)|フリードリヒ2世]]が後を継いだ。 |
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2012年3月24日 (土) 03:18時点における版
レオポルト6世(Leopold VI., 1176年 - 1230年6月28日)は、バーベンベルク家の第4代オーストリア公(在位:1198年 - 1230年)。第2代オーストリア公レオポルト5世とハンガリー王ゲーザ2世の娘イロナの次男で、第3代オーストリア公フリードリヒ1世の弟。
1194年に父が事故死した後は長兄のフリードリヒ1世がオーストリア公位を継ぎ、自らはシュタイアーマルク伯となった。しかし兄が1198年に嗣子無く陣没したため、オーストリア公位を継いだ。
即位後は、自らの権力強化を狙って支配下における貴族・領主層を圧迫し、様々な理由をつけては荘園を没収した。その一方で父が教皇に破門されて以来の教会との関係修復を図って、自ら第5回十字軍に参加したり異教徒を積極的に弾圧したりした。1215年に神聖ローマ帝国でヴェルフ家のオットー4世とホーエンシュタウフェン家のフリードリヒ2世による継承争いが起こると、フリードリヒ2世に協力してその勝利に貢献した。これによりホーエンシュタウフェン家と親密となり、フリードリヒ2世の長男ハインリヒ7世に娘を嫁がせて神聖ローマ帝国と友好関係を保つ一方、その文化の導入や交易などで様々な利益を上げた。また、ウィーンの整備・拡張にも積極的で、現在におけるウィーンの基礎はこの時代に築かれている。このように内政・外交で多くの成果を挙げて、バーベンベルク家の全盛期が築かれた。
1230年に急病で死去した。享年55。長男と次男は早世のため、三男のフリードリヒ2世が後を継いだ。
子女
1203年、東ローマ帝国皇女テオドラ・アンゲリナと結婚。
- マルガレーテ(1204年 - 1266年) - ドイツ王ハインリヒ7世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の長男)と結婚、死後にボヘミア王オタカル2世と再婚。
- アグネス(1205年 - 1226年) - ザクセン公アルブレヒト1世妃
- レオポルト(1207年 - 1216年)
- ハインリヒ(1208年 - 1228年) - テューリンゲン方伯ヘルマン1世の娘アグネスと結婚し、1女ゲルトルートをもうける。ゲルトルートはバーデン辺境伯ヘルマン6世と結婚、死別後にキエフ大公ダヌィーロの息子ロマンと再婚、フリードリヒ2世の死後、バーベンベルク家の女子相続人となる。
- ゲルトルート(1210年 - 1241年) - テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペ妃
- フリードリヒ2世(1211年 - 1246年) - オーストリア公
- コンスタンツェ(1212年 - 1243年) - マイセン辺境伯ハインリヒ3世妃
参考文献
- 「オーストリア史」彩流社
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