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'''井伊谷宮'''(いいのやぐう)は、[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]](旧[[引佐郡]][[引佐町]])にある[[神社]]である。旧[[近代社格制度|社格]]は[[官幣中社]]。[[建武中興十五社]]の一社である。
'''井伊谷宮'''(いいのやぐう)は、[[静岡県]][[浜松市]][[北区 (浜松市)|北区]]の井伊谷にある[[神社]]である。旧[[近代社格制度|社格]]は[[官幣中社]]。[[建武中興十五社]]の一社である。


[[後醍醐天皇]]の第四皇子で[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に征東将軍として関東各地を転戦した[[宗良親王]]を祀る。元中2年([[1385年]])8月10日に73歳で歿した地と伝えられ(社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。[[神紋]]の李花紋は、歌人としても有名であった宗良親王の家集の題名に因むものである。
== 概要 ==
[[後醍醐天皇]]の第四皇子で[[建武の新政]])の際に征東将軍として関東各地を転戦した[[宗良親王]]を祀る。鎮座地は元中2年([[1385年]])8月10日に73歳で歿した地と伝えられている終焉の地については、諸説あ社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。


== 歴史 ==
明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社の創建が次々に作られた中の一つである。[[彦根藩]]の[[知藩事]]・[[井伊直憲]]が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年([[1869年]])にその手伝いをするよう命じられた。井伊谷は[[井伊氏]]発祥の地で、宗良親王は[[井伊道政]]と[[井伊高顕]]に助けられ、この地で死んだと伝えられていた<ref>岡田米夫「神宮・神社創建史」30-31頁。</ref>。
明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社が次々に作られた中の一つである。[[彦根藩]]の[[知藩事]]・[[井伊直憲]]が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年([[1869年]])にその手伝いをするよう命じられた。井伊谷は[[井伊氏]]発祥の地で、宗良親王は[[井伊道政]]と[[井伊高顕]]に助けられ、この地で死んだと伝えられていた<ref>岡田米夫「神宮・神社創建史」30-31頁。</ref>。翌明治3年([[1870年]])の春に完成した神社は、はじめ宗良親王御社といったようだが、明治5年([[1872年]])1月23日に井伊谷宮に改称になり、2月12日に鎮座祭が[[神祇省]]の役人によって行なわれた<ref>「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S46B0100560000/085807432852.pdf 宗良親王御社ヲ井伊谷宮ト称ス附鎮坐祭典官員参向・三条]」、『太政類典』第2編(明治4年~明治10年)、第256巻、5。</ref>。


初め[[近代社格制度|社格]]がなく、[[神官]]を置かず、[[宮内省]][[式部寮]]の役人が祭祀を執行していたが、明治6年([[1873年]])6月9日に白峯宮([[白峯神宮]])、[[鎌倉宮]]とともに官幣中社に列せられた<ref>「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S46B0100560000/087107432865.pdf 自峯宮并鎌倉井伊谷二宮ヲ官幣中社東照宮ヲ別格官幣社ニ列ス]」、『太政類典』第2編(明治4年~明治10年)、第256巻、8。</ref>
翌明治3年([[1870年]])の春に完成した神社は、はじめ井伊谷宗良親王御社といったようだが、明治5年([[1872年]])1月23日に井伊谷宮に改称された。同年2月12日に鎮座祭が[[神祇省]]の役人によって行なわれた。明治6年([[1873年]])6月9日に官幣中社に列せられた<ref>岡田米夫「神宮・神社創建史」31頁。</ref>


=== 年表 ===
[[神紋]]の李花紋は、歌人としても有名であった宗良親王の家集の題名に因むものである。
*明治2年([[1869年]]) - 宗良親王を祭る神社の創建が決定。
*明治5年([[1872年]])1月23日 - 宗良親王御社を井伊谷宮と称す。
*明治6年([[1873年]])6月9日 - 官幣中社に列した。
*  12月04日 - 竜潭寺塔頭廃寺跡を社地となし、うち600坪を宗良親王の墓地に定めた<ref>「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S46B0100560000/086107432855.pdf 宗良親王御社地御墓地区別ヲ定ム]」、『太政類典』第2編(明治4年~明治10年)、第256巻、6。</ref>。
*明治11年([[1878年]])10月28日 - 静岡県令[[大迫貞清]]が井伊谷宮奉幣使として参向を命じられた<ref>「[http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/S46B0100790000/027507472045.pdf 井伊谷宮ヘ奉幣使参向]」、『太政類典』第3編(明治11年~明治12年)、第56巻、87。</ref>。


== 文化財 ==
== 文化財 ==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『[[太政類典]]』、[http://www.digital.archives.go.jp/index.htmli 国立公文書館デジタル・アーカイブ]により2011年9月閲覧。
*岡田米夫「神宮・神社創建史」、松山能夫・編『明治維新神道百年史』第2巻、神道文化会、1966年。
*岡田米夫「神宮・神社創建史」、松山能夫・編『明治維新神道百年史』第2巻、神道文化会、1966年。



2011年9月26日 (月) 18:12時点における版

井伊谷宮
所在地 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷1991-1
位置 北緯34度49分45.26秒 東経137度40分4.27秒 / 北緯34.8292389度 東経137.6678528度 / 34.8292389; 137.6678528
主祭神 宗良親王
社格 官幣中社・別表神社
創建 明治5年(1872年
例祭 9月22日
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井伊谷宮(いいのやぐう)は、静岡県浜松市北区の井伊谷にある神社である。旧社格官幣中社建武中興十五社の一社である。

後醍醐天皇の第四皇子で南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王を祀る。元中2年(1385年)8月10日に73歳で歿した地と伝えられ(他説もある)、社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。神紋の李花紋は、歌人としても有名であった宗良親王の家集の題名に因むものである。

歴史

明治維新の際、建武中興に尽力した人々を祀る神社が次々に作られた中の一つである。彦根藩知藩事井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治2年(1869年)にその手伝いをするよう命じられた。井伊谷は井伊氏発祥の地で、宗良親王は井伊道政井伊高顕に助けられ、この地で死んだと伝えられていた[1]。翌明治3年(1870年)の春に完成した神社は、はじめ宗良親王御社といったようだが、明治5年(1872年)1月23日に井伊谷宮に改称になり、2月12日に鎮座祭が神祇省の役人によって行なわれた[2]

初め社格がなく、神官を置かず、宮内省式部寮の役人が祭祀を執行していたが、明治6年(1873年)6月9日に白峯宮(白峯神宮)、鎌倉宮とともに官幣中社に列せられた[3]

年表

  • 明治2年(1869年) - 宗良親王を祭る神社の創建が決定。
  • 明治5年(1872年)1月23日 - 宗良親王御社を井伊谷宮と称す。
  • 明治6年(1873年)6月9日 - 官幣中社に列した。
  •   12月04日 - 竜潭寺塔頭廃寺跡を社地となし、うち600坪を宗良親王の墓地に定めた[4]
  • 明治11年(1878年)10月28日 - 静岡県令大迫貞清が井伊谷宮奉幣使として参向を命じられた[5]

文化財

重要文化財

脚注

  1. ^ 岡田米夫「神宮・神社創建史」30-31頁。
  2. ^ 宗良親王御社ヲ井伊谷宮ト称ス附鎮坐祭典官員参向・三条」、『太政類典』第2編(明治4年~明治10年)、第256巻、5。
  3. ^ 自峯宮并鎌倉井伊谷二宮ヲ官幣中社東照宮ヲ別格官幣社ニ列ス」、『太政類典』第2編(明治4年~明治10年)、第256巻、8。
  4. ^ 宗良親王御社地御墓地区別ヲ定ム」、『太政類典』第2編(明治4年~明治10年)、第256巻、6。
  5. ^ 井伊谷宮ヘ奉幣使参向」、『太政類典』第3編(明治11年~明治12年)、第56巻、87。

参考文献