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2011年6月5日 (日) 13:56時点における版

オルレアン公爵夫人エレーヌと長男ルイ・フィリップ、フランツ・ヴィンターハルター画、1839年頃、ヴェルサイユ宮殿所蔵

ヘレーネ・ルイーゼ・エリーザベト・ツー・メクレンブルク:Helene Luise Elisabeth zu Mecklenburg [-Schwerin], 1814年1月24日 ルートヴィヒスルスト - 1858年5月17日 リッチモンド・アポン・テムズロンドン)は、ドイツのメクレンブルク=シュヴェリーン大公家の公女で、フランス王ルイ・フィリップの世継ぎ王子であったオルレアン公フェルディナン・フィリップの妃。フランス語名はエレーヌ・ド・メクランブール=シュウェランHélène de Mecklembourg-Schwerin)。

生涯

メクレンブルク=シュヴェリーン大公世子フリードリヒ・ルートヴィヒとその2番目の妻でザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公カール・アウグストの娘であるカロリーネ・ルイーゼの間の第2子、長女として、ルートヴィヒスルスト宮殿(Schloss Ludwigslust)で生まれた。父にとっては2番目の娘である。幼い頃に両親を相次いで亡くし、父方の祖父であるメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ1世の手許で育てられた。

異母兄パウル・フリードリヒ大公の妻アレクサンドリーネがプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の娘だった関係で、プロイセンとの同盟を模索する7月王政期のフランス王ルイ・フィリップの長男で王位継承者であるオルレアン公との縁談が持ち上がった。ヘレーネはカトリック信徒であるオルレアン家とは宗旨の違うプロテスタント信徒であり、また美しくもなかったが、自由主義的な思想の持ち主だった。ヘレーネ自身、非常に野心的なプリンセスで、家族の反対を押し切ってでも将来のフランス王妃の座を逃すまいとした。

1837年5月30日、パリ郊外のフォンテーヌブロー宮殿において、オルレアン公と結婚式を挙げた。パリ大司教イアサント=ルイ・ド・ケルンHyacinthe-Louis de Quélen)が、宗派の違う夫婦の結婚式にノートルダム聖堂を使用するのを禁じたため、宮殿を結婚式場に使ったのだった。以後、ヘレーネはオルレアン公爵夫人エレーヌと呼ばれた。姑のマリー・アメリー王妃はエレーヌのリベラル傾向やプロテスタント信仰が気に入らず、長男の嫁を嫌った。

オルレアン公爵夫妻の夫婦仲は良好で、すぐに2人の息子が生まれ、オルレアン王家の存続も安泰となった。エレーヌはドイツのクリスマスツリーを飾る習慣をフランスに持ち込んだことで有名である。

1842年7月13日、オルレアン公が馬車事故により不慮の死を遂げると、ルイ・フィリップ王の後継者には新たにオルレアン公爵夫妻の長男のパリ伯爵フィリップが指名された。パリ伯爵が幼くして祖父から王位を継いだ場合、成人まで摂政が置かれることも定められた。摂政にはパリ伯爵の母親であるエレーヌと、亡きオルレアン公の次弟ヌムール公の2人の名前が挙がったが、最終的な決定は下されないままだった。

1848年の2月革命により、ルイ・フィリップはフランス王位を追われた。エレーヌは王制の廃止を避けるため、自ら幼い息子パリ伯爵の摂政となることを宣言し、2人の息子を伴ってリュクサンブール宮殿元老院の議場に入った。エレーヌは長男がフランス王位の相続者であり、その成人まで自らが摂政として国務を執ると主張したが、元老院はこの提案を拒否した。

エレーヌは息子たちと一緒にドイツのアイゼナハに亡命し、その後もオルレアン家の復権のための運動を続けた。しかしフランス国内の君主制支持者たちは、シャンボール伯爵を家長とするブルボン正統王朝の復権を支持するようになっていった。

1858年、インフルエンザに罹患してロンドンのリッチモンド・アポン・テムズにおいて44歳で死去した。遺骸ははじめサリー州のウェイブリッジ(Weybridge)に葬られたが、1876年にドルーのサン・ルイ王室礼拝堂(Chapelle royale de Dreux)に安置された。

子女

参考文献

  • (フランス語) Généalogie des rois et des princes, by Jean-Charles Volkmann. Edit Jean-Paul Gisserot (1998)
  • (フランス語) Les Orléans, une famille en quête d'un trône, by Georges Poisson Perrin (1999)
  • (フランス語) Hélène de Mecklembourg-Schwerin; Madame la duchesse d'Orléans; New edition. Paris: Michel Lévy (1859)