「シント・マールテン」の版間の差分
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2010年10月16日 (土) 06:02時点における版
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公用語 | オランダ語 | ||||
地域圏 | オランダ領アンティル | ||||
県庁所在地 | フィリップスブルフ | ||||
元首 | ベアトリクス | ||||
知事 | フランクリン・E・リチャース | ||||
面積 - 総計 - 水面積率 | 34km² 0.26% | ||||
人口 - 総計 - 人口密度 | 35,000人 () 1,029/km² | ||||
通貨 | アンティル・ギルダー (ANG) |
シント・マールテン (Sint Maarten, Eilandgebied Sint Maarten, Island area of Sint Maarten) とは、カリブ海に浮かぶセント・マーチン島のオランダ語名であり、特にオランダの自治領となっている島の南半分を指す。英語ではダッチ・サイド (Dutch Side) と呼ばれている。なお島の北半分はフランス領であり、サン・マルタンと呼ばれる。
歴史
コロンブスの発見後、スペイン人が頻繁に訪れていた。オランダ人がやって来て、島に塩があったことから1620年まで島の池にある塩を採掘していた。1630年にフランス人が島にやって来た後にオランダ人もやって来て、アムステルダム城砦を造った。1638年にスペインの艦隊がやって来てオランダ人を攻撃し、島を占領した。その時、スペインを島及び東カリブから撃退するため、オランダはフランスと一時、手を組んでいる。オランダのピーター・スタイヴサント(Peter Stuyvesant、オランダ領ニューアムステルダムの最後の知事)指揮のオランダ艦隊がやって来て、スペインと島の争奪のための戦争をした。この戦争でスタイヴサントは片足を失った。1644年、スペインとの80年にも及ぶ島の争奪戦争の末、ついにスペインは東カリブの重要性はなしと判断し、島と東カリブから去った。
その後、再びセントキッツ島からフランス人入植者とシント・ユースタティウス島からオランダ人入植者が島にやって来て、1648年にオランダとフランスは島をオランダ領とフランス領に2分する条約に署名し、オランダ領シント・マールテンとフランス領サン・マルタンに分かれた。その後、境界をめぐって論争し対立した。1815年のパリ条約で現在の境界で決着がつくまで、オランダ領シント・マールテンとフランス領サン・マルタンは16回も領域の境界が変わっていった。その頃、オランダ領シント・マールテンでは塩や綿、タバコの交換の中心地として、そして19世紀の奴隷制度廃止までアフリカからの奴隷で、サトウキビのプランテーションとして栄えた。後に経済不況が襲い、経済が不安になり、輸入及び輸出税が廃止され、島がフリーポートになった時に、1939年に免税港として宣言した。1943年のプリンセス・ユリアナ国際空港の開港と、5年後に最初のリゾートホテルが建ったことで、観光産業も栄えるようになる。その後、オランダ領アンティルに組み込まれた。
政治
シント・マールテンはオランダ領であり、オランダ領アンティルの5島区の中の1島区である。独自の党でシント・マールテン人民党 (Saint Martin Peoples Party) やPeople's Progressive Partyなどの党や議会を持ち、知事がいる。シント・マールテンの知事はフランクリン・E・リチャース。オランダ領アンティルの島区から分離して独自のオランダ自治領を望む声があり、2000年6月23日の住民投票ではオランダ領アンティルに残ることを選んだが、2006年6月1日の投票では脱退の方を選んでいる。2010年10月10日、オランダ領アンティルが解体され、オランダの自治領となった。
交通
プリンセス・ユリアナ国際空港がある。
経済
かつては塩で栄えていたが、現在では観光とタックス・ヘイヴンが経済の中心。リキュールの輸出もある。
人口
人口は約3万5000人で、サトウキビのプランテーションのためアフリカから奴隷として連れてこられた黒人がほとんどだがクレオールやオランダ人の白人もいる。公用語はオランダ語で他にクレオール語、英語も幅広く話す。