「ヨハン (ザクセン王)」の版間の差分
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| 全名 = <span style="font-size:75%;">ヨハン・ネポムク・マリア・ヨーゼフ・アントン・クサヴァー・ヴィンツェンツ・アロイス・フランツ・デ・パウラ・スタニスラウス・ベルンハルト・パウル・フェリックス・ダマスス・フォン・ザクセン</span> |
| 全名 = <span style="font-size:75%;">ヨハン・ネポムク・マリア・ヨーゼフ・アントン・クサヴァー・ヴィンツェンツ・アロイス・フランツ・デ・パウラ・スタニスラウス・ベルンハルト・パウル・フェリックス・ダマスス・フォン・ザクセン</span> |
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'''ヨハン'''({{lang|de|Johann}}、[[1801年]][[12月12日]] - [[1873年]][[10月29日]])は、[[ザクセン王国]]の第4代[[国王]](在位:[[1854年]] - [[1873年]])。ザクセン王太子[[マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)|マクシミリアン]](1759年 - 1838年)の三男で、第3代ザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]の弟。初代ザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]、第2代ザクセン王[[アントン (ザクセン王)|アントン]]の甥。全名は''{{lang|de|Johann Nepomuk Maria Joseph Anton Xaver Vincenz Aloys Franz de Paula Stanislaus Bernhard Paul Felix Damasus}}''。 |
'''ヨハン'''({{lang|de|Johann}}、[[1801年]][[12月12日]] - [[1873年]][[10月29日]])は、[[ザクセン王国]]の第4代[[国王]](在位:[[1854年]] - [[1873年]])。ザクセン王太子[[マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)|マクシミリアン]](1759年 - 1838年)の三男で、第3代ザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト2世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト2世]]の弟。初代ザクセン王[[フリードリヒ・アウグスト1世 (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト1世]]、第2代ザクセン王[[アントン (ザクセン王)|アントン]]の甥。全名は''{{lang|de|Johann Nepomuk Maria Joseph Anton Xaver Vincenz Aloys Franz de Paula Stanislaus Bernhard Paul Felix Damasus}}''。 |
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[[1801年]][[12月12日]]に[[ドレスデン]]で、[[ザクセン |
[[1801年]][[12月12日]]に[[ドレスデン]]で、[[ザクセン君主一覧|ザクセン選帝侯]][[フリードリヒ・クリスティアン (ザクセン選帝侯)|フリードリヒ・クリスティアン]]の五男[[マクシミリアン・フォン・ザクセン (1759-1838)|マクシミリアン]]とその最初の妻であった[[パルマ公の一覧|パルマ公]][[フェルディナンド・ディ・ボルボーネ|フェルディナンド]]の娘[[カロリーナ・マリーア・ディ・ボルボーネ=パルマ|カロリーナ・マリーア]](1770年 - 1804年、独語名カロリーネ・マリア)の第六子として生まれた。 |
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ヨハンは詩や音楽を好み、特に母親がイタリアのパルマ公家出身ということもあってイタリア文学に傾倒した。[[1821年]]には兄[[クレメンス・フォン・ザクセン|クレメンス]]とともにイタリアへ旅行している(なお同行したクレメンスは翌[[1822年]]に[[ピサ]]で客死した)。また、自ら'''フィラレテス'''(''{{lang|de|Philalethes}}'')の筆名で[[ダンテ・アリギエーリ]]の『[[神曲]]』をドイツ語へ翻訳している。 |
ヨハンは詩や音楽を好み、特に母親がイタリアのパルマ公家出身ということもあってイタリア文学に傾倒した。[[1821年]]には兄[[クレメンス・フォン・ザクセン|クレメンス]]とともにイタリアへ旅行している(なお同行したクレメンスは翌[[1822年]]に[[ピサ]]で客死した)。また、自ら'''フィラレテス'''(''{{lang|de|Philalethes}}'')の筆名で[[ダンテ・アリギエーリ]]の『[[神曲]]』をドイツ語へ翻訳している。 |
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[[1822年]][[11月21日]]にヨハンは[[バイエルン |
[[1822年]][[11月21日]]にヨハンは[[バイエルン国王|バイエルン王]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の王女[[アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン|アマーリエ・アウグステ]](1801年 - 1877年)とドレスデンで結婚した。 |
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[[1830年]]に長兄フリードリヒ・アウグストは国王であった伯父[[アントン (ザクセン王)|アントン]]によって[[摂政]]に任命され、[[1836年]]にアントンが死去するとフリードリヒ・アウグスト2世として王位に即いた。フリードリヒ・アウグスト2世にも子供がいなかったためヨハンは王太弟となり、[[1854年]]に彼が事故死すると王位を嗣いだ。 |
[[1830年]]に長兄フリードリヒ・アウグストは国王であった伯父[[アントン (ザクセン王)|アントン]]によって[[摂政]]に任命され、[[1836年]]にアントンが死去するとフリードリヒ・アウグスト2世として王位に即いた。フリードリヒ・アウグスト2世にも子供がいなかったためヨハンは王太弟となり、[[1854年]]に彼が事故死すると王位を嗣いだ。 |
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ザクセン王国は首相の[[フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト]]([[:en:Friedrich Ferdinand Graf Beust|Friedrich Ferdinand von Beust]])の影響の下、[[大ドイツ主義]]を採って[[オーストリア帝国]]と接近した。しかしオーストリア側で参戦した[[普墺戦争]]([[1866年]])で[[プロイセン王国]]に敗れるとザクセンも[[北ドイツ連邦]]に加盟し、[[1871年]]の[[ドイツ統一]]の際には[[ドイツ帝 |
ザクセン王国は首相の[[フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト]]([[:en:Friedrich Ferdinand Graf Beust|Friedrich Ferdinand von Beust]])の影響の下、[[大ドイツ主義]]を採って[[オーストリア帝国]]と接近した。しかしオーストリア側で参戦した[[普墺戦争]]([[1866年]])で[[プロイセン王国]]に敗れるとザクセンも[[北ドイツ連邦]]に加盟し、[[1871年]]の[[ドイツ統一]]の際には[[ドイツ皇帝]][[ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム1世]]に忠誠を誓っている。 |
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ヨハンは[[1873年]][[10月29日]]に[[ピルニッツ]]で死去し、王位は長男の[[アルベルト (ザクセン王)|アルベルト]]が嗣いだ。 |
ヨハンは[[1873年]][[10月29日]]に[[ピルニッツ]]で死去し、王位は長男の[[アルベルト (ザクセン王)|アルベルト]]が嗣いだ。 |
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* [[ゲオルク (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト・'''ゲオルク'''・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・マリア・ネポムク・バプティスト・クサーヴァ・ツィリアツス・ロマヌス]] (1832年 - 1904年、ザクセン王) |
* [[ゲオルク (ザクセン王)|フリードリヒ・アウグスト・'''ゲオルク'''・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・マリア・ネポムク・バプティスト・クサーヴァ・ツィリアツス・ロマヌス]] (1832年 - 1904年、ザクセン王) |
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* [[シドーニア・フォン・ザクセン|マリア・'''シドーニア'''・ルドヴィカ・マティルデ・ヴィルヘルミーネ・アウグステ・クサヴェリア・バプティスタ・ネポムツェナ・ヴェロニカ・ヒュアツィンティア・デオダタ]] (1834年 - 1862年) |
* [[シドーニア・フォン・ザクセン|マリア・'''シドーニア'''・ルドヴィカ・マティルデ・ヴィルヘルミーネ・アウグステ・クサヴェリア・バプティスタ・ネポムツェナ・ヴェロニカ・ヒュアツィンティア・デオダタ]] (1834年 - 1862年) |
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* [[アンナ・フォン・ザクセン|'''アンナ'''・マリア・マクシミリアーネ・シュテファニア・カロリーネ・ヨハンナ・ルイーザ・クサヴェリア・ネポムツェナ・アロイシア・ベネディクタ]] (1836年 - 1859年、[[トスカーナ |
* [[アンナ・フォン・ザクセン|'''アンナ'''・マリア・マクシミリアーネ・シュテファニア・カロリーネ・ヨハンナ・ルイーザ・クサヴェリア・ネポムツェナ・アロイシア・ベネディクタ]] (1836年 - 1859年、[[トスカーナの支配者一覧|トスカーナ大公]][[フェルディナンド4世 (トスカーナ大公)|フェルディナンド4世]]妃) |
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* [[マルガレーテ・フォン・ザクセン (1840-1858)|'''マルガレーテ'''・カロリーネ・フリーデリケ・ツェツィリエ・アウグステ・アマーリエ・ヨゼフィーネ・エリーザベト・マリア・ヨハンナ]] (1840年 - 1858年、オーストリア大公[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]妃) |
* [[マルガレーテ・フォン・ザクセン (1840-1858)|'''マルガレーテ'''・カロリーネ・フリーデリケ・ツェツィリエ・アウグステ・アマーリエ・ヨゼフィーネ・エリーザベト・マリア・ヨハンナ]] (1840年 - 1858年、オーストリア大公[[カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ|カール・ルートヴィヒ]]妃) |
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* [[ゾフィー・フォン・ザクセン|'''ゾフィー'''・マリア・フリーデリケ・アウグステ・レオポルディーネ・アレクサンドリーネ・エルンスティーネ・アルベルティーネ・エリーザベト]] (1845年 - 1867年、バイエルン公[[カール・テオドール・イン・バイエルン|カール・テオドール]]妃) |
* [[ゾフィー・フォン・ザクセン|'''ゾフィー'''・マリア・フリーデリケ・アウグステ・レオポルディーネ・アレクサンドリーネ・エルンスティーネ・アルベルティーネ・エリーザベト]] (1845年 - 1867年、[[バイエルン公 (Herzog in Bayern)|バイエルン公]][[カール・テオドール・イン・バイエルン|カール・テオドール]]妃) |
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2010年7月24日 (土) 19:20時点における版
ヨハン Johann | |
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ザクセン王 | |
在位 | 1854年8月9日 - 1873年10月29日 |
全名 | ヨハン・ネポムク・マリア・ヨーゼフ・アントン・クサヴァー・ヴィンツェンツ・アロイス・フランツ・デ・パウラ・スタニスラウス・ベルンハルト・パウル・フェリックス・ダマスス・フォン・ザクセン |
出生 |
1801年12月12日 ザクセン、ドレスデン |
死去 |
1873年10月29日(71歳没) ザクセン、ピルニッツ |
埋葬 |
ドイツ、ザクセン州ドレスデン、カトリック宮廷教会 |
配偶者 | アマーリエ・アウグステ・フォン・バイエルン |
子女 |
マリー アルベルト エリーザベト エルンスト ゲオルク ジドーニエ アンナ マルガレーテ ゾフィー |
家名 | ヴェッティン家 |
父親 | マクシミリアン・フォン・ザクセン |
母親 | カロリーネ・フォン・ブルボン=パルマ |
ヨハン(Johann、1801年12月12日 - 1873年10月29日)は、ザクセン王国の第4代国王(在位:1854年 - 1873年)。ザクセン王太子マクシミリアン(1759年 - 1838年)の三男で、第3代ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世の弟。初代ザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世、第2代ザクセン王アントンの甥。全名はJohann Nepomuk Maria Joseph Anton Xaver Vincenz Aloys Franz de Paula Stanislaus Bernhard Paul Felix Damasus。
1801年12月12日にドレスデンで、ザクセン選帝侯フリードリヒ・クリスティアンの五男マクシミリアンとその最初の妻であったパルマ公フェルディナンドの娘カロリーナ・マリーア(1770年 - 1804年、独語名カロリーネ・マリア)の第六子として生まれた。
ヨハンは詩や音楽を好み、特に母親がイタリアのパルマ公家出身ということもあってイタリア文学に傾倒した。1821年には兄クレメンスとともにイタリアへ旅行している(なお同行したクレメンスは翌1822年にピサで客死した)。また、自らフィラレテス(Philalethes)の筆名でダンテ・アリギエーリの『神曲』をドイツ語へ翻訳している。
1822年11月21日にヨハンはバイエルン王マクシミリアン1世の王女アマーリエ・アウグステ(1801年 - 1877年)とドレスデンで結婚した。
1830年に長兄フリードリヒ・アウグストは国王であった伯父アントンによって摂政に任命され、1836年にアントンが死去するとフリードリヒ・アウグスト2世として王位に即いた。フリードリヒ・アウグスト2世にも子供がいなかったためヨハンは王太弟となり、1854年に彼が事故死すると王位を嗣いだ。
ザクセン王国は首相のフリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト(Friedrich Ferdinand von Beust)の影響の下、大ドイツ主義を採ってオーストリア帝国と接近した。しかしオーストリア側で参戦した普墺戦争(1866年)でプロイセン王国に敗れるとザクセンも北ドイツ連邦に加盟し、1871年のドイツ統一の際にはドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に忠誠を誓っている。
ヨハンは1873年10月29日にピルニッツで死去し、王位は長男のアルベルトが嗣いだ。
子女
王妃のアマーリエ・アウグステとの間には以下の三男六女をもうけた。
- マリー・アウグステ・フリーデリケ・カロリーネ・ルドヴィケ・アマーリエ・マクシミリアーネ・フランツィスカ・ネポムツェナ・クサヴェリア (1827年 - 1857年)
- フリードリヒ・アウグスト・アルベルト・アントン・フェルディナント・ヨーゼフ・カール・マリア・バプティスト・ネポムク・ヴィルヘルム・クサーヴァ・ゲオルク・フィデリス (1828年 - 1902年、ザクセン王)
- マリア・エリーザベト・マクシミリアーナ・ルドヴィカ・アマーリエ・フランツィスカ・ゾフィア・レオポルディーネ・アンナ・バプティスタ・クサヴェリア・ネポムツェナ (1830年 - 1912年、ジェノヴァ公フェルディナンド妃)
- フリードリヒ・アウグスト・エルンスト・フェルディナント・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・アントン・ネポムク・マリア・バプティスト・クサーヴァ・ヴィンツェンツ (1831年 - 1847年)
- フリードリヒ・アウグスト・ゲオルク・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・マリア・ネポムク・バプティスト・クサーヴァ・ツィリアツス・ロマヌス (1832年 - 1904年、ザクセン王)
- マリア・シドーニア・ルドヴィカ・マティルデ・ヴィルヘルミーネ・アウグステ・クサヴェリア・バプティスタ・ネポムツェナ・ヴェロニカ・ヒュアツィンティア・デオダタ (1834年 - 1862年)
- アンナ・マリア・マクシミリアーネ・シュテファニア・カロリーネ・ヨハンナ・ルイーザ・クサヴェリア・ネポムツェナ・アロイシア・ベネディクタ (1836年 - 1859年、トスカーナ大公フェルディナンド4世妃)
- マルガレーテ・カロリーネ・フリーデリケ・ツェツィリエ・アウグステ・アマーリエ・ヨゼフィーネ・エリーザベト・マリア・ヨハンナ (1840年 - 1858年、オーストリア大公カール・ルートヴィヒ妃)
- ゾフィー・マリア・フリーデリケ・アウグステ・レオポルディーネ・アレクサンドリーネ・エルンスティーネ・アルベルティーネ・エリーザベト (1845年 - 1867年、バイエルン公カール・テオドール妃)
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