「唐津神社」の版間の差分

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==歴史==
==歴史==
社伝によれば、[[三韓征伐]]に際して航海の安全を住吉三神に祈願した[[神功皇后]]が、帰朝の後に報謝のため松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀ったのに起源を持ち、[[天平勝宝]]7年([[755年]])に、時の領主であった神田宗次が神夢により海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筺を得たので、神功皇后の捧げた鏡であろうと帝に奏聞したところ、9月29日に「唐津大明神」の称号を賜ったといい、[[文治]]2年([[1186年]])、宗次の後裔を称する[[神田広]](実は[[源久]]の5男)が社殿を造立して神田を寄進し、神田宗次の霊を[[合祀]]したという。[[慶長|慶長年中]]に[[寺沢氏]]が[[唐津城]]を築いて入部すると、同7年([[1602年]])(または11年([[1606年]])<ref>『神社名鑑』は7年とし、『神道大辞典』は11年とする。「七」と「土」と字体の相似によるものであろう。</ref>)に当神社を再建、以後[[唐津藩|唐津藩主]]の祈願所と定められ、崇敬を受けた。
社伝によれば、[[三韓征伐]]に際して航海の安全を住吉三神に祈願した[[神功皇后]]が、帰朝の後に報謝のため松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀ったのに起源を持ち、[[天平勝宝]]7年([[755年]])に、時の領主であった神田宗次が神夢により海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筺を得たので、神功皇后の捧げた鏡であろうと帝に奏聞したところ、9月29日に「唐津大明神」の称号を賜ったという。[[文治]]2年([[1186年]])、宗次の後裔を称する[[神田広]](実は[[源久]]の5男)が社殿を造立して神田を寄進し、神田宗次の霊を[[合祀]]したという。[[慶長|慶長年中]]に[[寺沢氏]]が[[唐津城]]を築いて入部すると、同7年([[1602年]])(または11年([[1606年]])<ref>『神社名鑑』は7年とし、『神道大辞典』は11年とする。「七」と「土」と字体の相似によるものであろう。</ref>)に当神社を再建、以後[[唐津藩|唐津藩主]]の祈願所と定められ、崇敬を受けた。


[[明治]]6年([[1873年]])に[[郷社]]に列し、[[昭和]]17年([[1942年]])県社に昇格、戦後は[[神社本庁]]に参加する。
[[明治]]6年([[1873年]])に[[郷社]]に列し、これを機に現在の「唐津神社」に改称した。それ以前の神社の名前はわからない。[[昭和]]17年([[1942年]])県社に昇格、戦後は[[神社本庁]]に参加する。


==主な祭事==
==主な祭事==

2009年8月9日 (日) 12:54時点における版

唐津神社
所在地 佐賀県唐津市南城内3-13
位置 北緯33度27分08秒 東経129度58分11秒 / 北緯33.45222度 東経129.96972度 / 33.45222; 129.96972
主祭神 住吉三神・神田宗次公
社格 旧県社
創建 伝天平勝宝7年(755年)
本殿の様式 流造
例祭 4月29日(春季)・10月29日(秋季)
主な神事 唐津神祭(11月2日-4日
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唐津神社(からつじんじゃ)は、佐賀県唐津市南城内にある神社である。旧社格は県社

祭神

歴史

社伝によれば、三韓征伐に際して航海の安全を住吉三神に祈願した神功皇后が、帰朝の後に報謝のため松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀ったのに起源を持ち、天平勝宝7年(755年)に、時の領主であった神田宗次が神夢により海浜に赴くと、漂着してきた宝鏡入りの筺を得たので、神功皇后の捧げた鏡であろうと帝に奏聞したところ、9月29日に「唐津大明神」の称号を賜ったという。文治2年(1186年)、宗次の後裔を称する神田広(実は源久の5男)が社殿を造立して神田を寄進し、神田宗次の霊を合祀したという。慶長年中寺沢氏唐津城を築いて入部すると、同7年(1602年)(または11年(1606年[1])に当神社を再建、以後唐津藩主の祈願所と定められ、崇敬を受けた。

明治6年(1873年)に郷社に列し、これを機に現在の「唐津神社」に改称した。それ以前の神社の名前はわからない。昭和17年(1942年)県社に昇格、戦後は神社本庁に参加する。

主な祭事

脚注

  1. ^ 『神社名鑑』は7年とし、『神道大辞典』は11年とする。「七」と「土」と字体の相似によるものであろう。

参考文献

外部リンク