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2009年5月2日 (土) 07:57時点における版
川勝 隆房(かわかつ たかふさ、寛永8年(1631年) - 宝永3年7月2日(1706年8月9日))は、江戸時代の旗本。本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされる。通称は平左衛門。川勝勘左衛門重氏の三男。母は村上左衛門信清の二女。妻は馬淵氏の娘。子に川勝隆成、川勝隆明(川勝隆尚の養子)、川勝広英(川勝広宣の養子)、娘(岡田五左衛門由重の妻)がいる。
慶安3年(1650年)9月3日、召されて家綱に仕える小十人に列し、同日初めて将軍家光に拝謁した。その後本城で仕え蔵米100俵を給わり、旗本家を興した。家紋は五七桐、釘抜。通し字は「隆」。明暦3年(1657年)12月25日、先の本城延焼の時の具足持ち出しを賞せられ、黄金1枚を賜った。万治2年(1659年)6月9日、組頭に進み、同年12月23日に200俵を加えられた。寛文5年(1665年)5月16日、職を辞し小普請となり、寛文8年(1668年)5月25日に大番に列した。延宝4年(1676年)10月25日材木奉行に転じた。元禄2年(1689年)12月29日に職を辞し、宝永3年(1706年)7月2日、76歳で没した。法名は隆英。墓所は(東京)赤坂の法安寺。家督は長男の隆成が継いだ。
参考文献
- 『寛政重修諸家譜(第18)新訂』続群書類従完成会、1981年
関連項目
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