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'''九条 兼孝'''(くじょう かねたか、[[天文 (元号)|天文]]22年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1553年]][[12月25日]]) - [[寛永]]13年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]([[1636年]][[2月23日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[関白]]。[[九条家]]第17代目当主。父は[[二条晴良]]。母は[[伏見宮貞敦親王]]の娘位子女王。[[二条昭実]]・[[鷹司信房]]・[[義演]]らの兄弟。[[九条稙通]]の[[養子]]になる。室は[[従三位]]高倉熙子([[高倉永家]]の娘)。子に[[九条幸家]]・[[増孝]]([[東寺]]一長者)・[[八条宮智仁親王]]室がいた。'''後月輪'''と号した。
'''九条 兼孝'''(くじょう かねたか、[[天文 (元号)|天文]]22年[[11月20日 (旧暦)|11月20日]]([[1553年]][[12月25日]]) - [[寛永]]13年[[1月17日 (旧暦)|1月17日]]([[1636年]][[2月23日]]))は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[関白]]。[[九条家]]第17代目当主。父は[[二条晴良]]。母は[[伏見宮貞敦親王]]の娘位子女王。[[二条昭実]]・[[鷹司信房]]・[[義演]]らの兄弟。[[九条稙通]]の[[養子]]になる。室は[[従三位]]高倉熙子([[高倉永家]]の娘)。子に[[九条幸家]]・[[増孝]]([[東寺]]一長者)・[[八条宮智仁親王]]室がいた。'''後月輪'''と号した。



2009年4月9日 (木) 04:20時点における版

九条 兼孝(くじょう かねたか、天文22年11月20日1553年12月25日) - 寛永13年1月17日1636年2月23日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての関白九条家第17代目当主。父は二条晴良。母は伏見宮貞敦親王の娘位子女王。二条昭実鷹司信房義演らの兄弟。九条稙通養子になる。室は従三位高倉熙子(高倉永家の娘)。子に九条幸家増孝東寺一長者)・八条宮智仁親王室がいた。後月輪と号した。

永禄3年(1560年)8歳で従三位に叙せられる。その後、左大臣を経て天正6年(1578年)関白・藤氏長者となったが、同9年(1581年)これを辞任。同10年(1582年従一位昇叙され、同16年(1588年)に准三宮宣下を受けた。慶長5年(1600年)再度関白に就任。同9年(1604年)これを辞任して出家し、法名を円性とした。寛永13年(1636年)1月17日、84歳で薨去した。

参考文献

  • 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年
  • 小和田哲男『日本史諸家系図人名辞典』講談社、2003年

関連項目