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* http://www.chizaki.jp/ 株式会社地崎工業(閉鎖) |
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2009年1月26日 (月) 18:54時点における版
株式会社地崎工業(ちざきこうぎょう)はかつて存在した北海道の建設会社。2007年、岩田地崎建設に吸収合併。
概要
前身の地崎組は富山県から単身渡道した地崎宇三郎により1891年に創業。従業員数名の土工部屋からの出発であったが、1910年に鉄道指名業者となってからは戦前~戦中の道内主要工事の多くを受注し、北海道を代表する企業として「道内土建業の雄」とも呼ばれた。1936年、初代の死去にともない二代目地崎宇三郎が社長就任。後に政界進出も果たし、戦後の東京進出に備えて中央政財界に太いパイプを築いた。三代目地崎宇三郎は選挙地盤を継いで後に運輸大臣(第2次大平内閣)も務めた。
1973年、株式会社地崎工業に商号を変更し本社を東京に移転。折りしもの好景気にのって全国の大規模建設工事に参加し、海外にも進出を果たした。最盛期の1996年には売上高1534億円余りを計上、中堅ゼネコンとして確固たる地位を築いたかに見えたが、翌1997年に長らく主力取引銀行だった北海道拓殖銀行が経営破綻。関連会社の不動産事業も多額の負債を抱え、バブル景気の崩壊と運命を共にすることとなった。拓銀破綻時、地崎工業本体の債権は600億円余りにのぼり、拓銀から引き継いだ北洋銀行など9機関が半分以上の債権放棄に応じたものの、業績はじり貧を続けた。この時に地崎オーナー家は会社経営から身を引いている。
その後は「本業回帰」を標榜して着実に受注高を回復させていったが、2000年代に入ってからも公共工事の赤字受注や、談合事件で逮捕者を出すなどの不祥事から業績不振が続き、債務超過に陥った2004年、岩田建設の支援を受けて経営統合。共に持株会社「ICホールディングス」の100%子会社となる。その後も経営再建に注力したが、公共事業縮小により業績好転は望めず、当初の予定を前倒しして2007年4月1日付で岩田建設を存続会社として吸収合併され、「岩田地崎建設株式会社」となった。
沿革
- 1891年(明治24年) 創業
- 1917年(大正6年)合資会社地崎組に商号変更
- 1920年(大正9年)株式合資会社地崎組に商号変更
- 1943年(昭和18年)株式会社地崎組に商号変更
- 1951年(昭和26年)東京へ進出
- 1958年(昭和33年)名神高速道路東伏見工事及び旧千歳空港ターミナルビル建設工事に参加
- 1964年(昭和39年)札幌、東京両本社体制実施を実施
- 1967年(昭和42年)完工高100億円突破
- 1968年(昭和43年)日本万国博覧会工事及び豊平峡ダム工事に参加
- 1971年(昭和46年)札樽自動車道工事に参加
- 1972年(昭和47年)関越自動車道東松山工事に参加
- 1973年(昭和48年)株式会社地崎工業に商号変更し本社を札幌から東京に移転
- 1980年(昭和55年)定山渓ダム工事に参加
- 1982年(昭和57年)海外工事に進出
- 1988年(昭和63年)完工高 1,000億円 突破
- 1989年(平成元年)新千歳空港ターミナルビル工事に参加
- 1990年(平成2年)東京湾アクアライン木更津人工島工事に参加
- 1991年(平成3年)創業100周年を記念して本社ビル(2006年に売却)を建設
- 1992年(平成4年)台湾の台北地下鉄工事に参加
- 1998年(平成10年)東名高速日本坂トンネル工事に参加
- 1999年(平成11年)本社を東京から札幌に移転
- 2001年(平成13年)創業110年
- 2004年(平成16年)経営再生計画を発表
- 2005年(平成17年)経営再生計画に則り同名の新会社発足
- 2006年(平成18年)本社屋を売却し移転
- 2007年(平成19年)岩田建設を存続会社とする吸収合併により岩田地崎建設株式会社に
会社概要(合併前)
- 本社所在地:札幌市中央区南1条東2丁目6番地 大通バスセンタービル2号館
- 東京本社所在地:東京都港区新橋5丁目11番3号
- 資本金:19億円
- 代表取締役社長:釘本光治
関連項目
外部リンク
- http://www.chizaki.jp/ 株式会社地崎工業(閉鎖)