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'''池田 政胤'''(いけだ まさたね、[[宝永]]3年([[1706年]]) - [[明和]]3年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1766年]][[3月14日]]))は[[江戸時代]]の[[旗本]]。[[池田政相]]の子。[[幼名]]は吉之丞、[[通称]]は数馬。妻は[[池田政応]]の娘。子に[[池田政永]]、又次郎(早世)、娘([[池田政倫]]の養女となり、[[池田長恵]]の妻となる)、養女([[大岡忠恒 (旗本)|大岡忠恒]]の娘。初め池田政永の妻となり、政永の死後、政胤の養女となり、[[池田政能]]の妻となった)がいる。
'''池田 政胤'''(いけだ まさたね、[[宝永]]3年([[1706年]]) - [[明和]]3年[[2月4日 (旧暦)|2月4日]]([[1766年]][[3月14日]]))は[[江戸時代]]の[[旗本]]。[[池田政相]]の子。[[幼名]]は吉之丞、[[通称]]は数馬。妻は[[池田政応]]の娘。子に[[池田政永]]、又次郎(早世)、娘([[池田政倫]]の養女となり、[[池田長恵]]の妻となる)、養女([[大岡忠恒 (旗本)|大岡忠恒]]の娘。初め池田政永の妻となり、政永の死後、政胤の養女となり、[[池田政能]]の妻となった)がいる。


宝永3年(1706年)生まれる。[[元文]]3年([[1738年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]、父の遺跡を継ぐ。[[宝暦]]8年([[1758年]])[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]、[[書院番]]の[[組頭]]となる。同12年([[1762年]])[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]に職を辞し、[[明和]]3年([[1766年]])に61歳で死去。跡を[[養子]]の[[池田政能]]が継いだ。
宝永3年(1706年)生まれる。[[元文]]3年([[1738年]])[[6月2日 (旧暦)|6月2日]]、父の遺跡を継ぐ。[[宝暦]]8年([[1758年]])[[5月15日 (旧暦)|5月15日]]、[[書院番]]の[[組頭]]となる。同12年([[1762年]])[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]に職を辞し、[[明和]]3年([[1766年]])に61歳で死去。跡を[[養子]]の[[池田政能]]が継いだ。


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2008年12月5日 (金) 18:41時点における版

池田 政胤(いけだ まさたね、宝永3年(1706年) - 明和3年2月4日1766年3月14日))は江戸時代旗本池田政相の子。幼名は吉之丞、通称は数馬。妻は池田政応の娘。子に池田政永、又次郎(早世)、娘(池田政倫の養女となり、池田長恵の妻となる)、養女(大岡忠恒の娘。初め池田政永の妻となり、政永の死後、政胤の養女となり、池田政能の妻となった)がいる。

宝永3年(1706年)生まれる。元文3年(1738年6月2日、父の遺跡を継ぐ。宝暦8年(1758年5月15日書院番組頭となる。同12年(1762年5月24日に職を辞し、明和3年(1766年)に61歳で死去。跡を養子池田政能が継いだ。