「藤原宇合」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''藤原宇合'''(ふじわらのうまかい、[[持統天皇]]8年([[694年]]) - [[天平]]9年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[737年]][[9月7日]]))は[[奈良時代]]の政治家。[[藤原不比等]]の三男。初めは「馬養」と名乗るが、[[遣唐使]]の副使として入唐後、「宇合」に改めたか。[[官位]]は[[正三位]]勲二等[[参議]][[式部卿]]兼[[大宰帥]]。
'''藤原 宇合'''(ふじわら うまかい、[[持統天皇]]8年([[694年]]) - [[天平]]9年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[737年]][[9月7日]]))は[[奈良時代]]の政治家。[[藤原不比等]]の三男。初めは「馬養」と名乗るが、[[遣唐使]]の副使として入唐後、「宇合」に改めたか。[[官位]]は[[正三位]]勲二等[[参議]][[式部卿]]兼[[大宰帥]]。


==生涯==
==生涯==


[[霊亀]]2年[[716年]]8月正六位下で遣唐副使に任命。これが史料の初見。翌月従五位下に。[[養老]]元年([[717年]])入唐。翌年10月に帰国。[[養老]]3年([[719年]])正月には正五位下と見え、遣唐副使の功により正五位上となる。同年7月の[[按察使]]設置時に、常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任命。[[養老]]5年([[721年]])に四階進んで正四位上。
[[霊亀]]2年[[716年]]8月正六位下で遣唐副使に任命。これが史料の初見。翌月従五位下に。[[養老]]元年([[717年]])入唐。翌年10月に帰国。[[養老]]3年([[719年]])正月には正五位下と見え、遣唐副使の功により正五位上となる。同年7月の[[按察使]]設置時に、常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任命。[[養老]]5年([[721年]])に四階進んで正四位上。


[[神亀]]元年([[724年]])4月[[式部卿]]で[[持節大将軍]]に任命され出兵。[[蝦夷]]の反乱を平定し11月帰還。この功により翌年[[位階]][[勲等]]を進められ[[従三位]]勲二等となる。[[神亀]]3年([[726年]])[[式部卿]]のまま知造[[難波宮]]事。後期[[難波宮]]造営の責任者となる。この後[[天平]]元年([[729年]])の[[長屋王]]の変時も[[式部卿]]として対応。[[天平]]4年([[732年]])には、参議・式部卿として[[西海道]]節度使となる。この時の詩が[[懐風藻]]にあり、[[高橋虫麻呂]]の見送る歌が[[万葉集]]に残る。なお、[[宝亀]]11年([[780年]])に、宇合の時の警固式を用いるようにとの命令が出ている。
[[神亀]]元年([[724年]])4月[[式部卿]]で[[持節大将軍]]に任命され出兵。[[蝦夷]]の反乱を平定し11月帰還。この功により翌年[[位階]][[勲等]]を進められ[[従三位]]勲二等となる。[[神亀]]3年([[726年]])[[式部卿]]のまま知造[[難波宮]]事。後期[[難波宮]]造営の責任者となる。この後[[天平]]元年([[729年]])の[[長屋王]]の変時も[[式部卿]]として対応。[[天平]]4年([[732年]])には、参議・式部卿として[[西海道]]節度使となる。この時の詩が[[懐風藻]]にあり、[[高橋虫麻呂]]の見送る歌が[[万葉集]]に残る。なお、[[宝亀]]11年([[780年]])に、宇合の時の警固式を用いるようにとの命令が出ている。

2008年7月9日 (水) 16:26時点における版

藤原 宇合(ふじわら の うまかい、持統天皇8年(694年) - 天平9年8月5日737年9月7日))は奈良時代の政治家。藤原不比等の三男。初めは「馬養」と名乗るが、遣唐使の副使として入唐後、「宇合」に改めたか。官位正三位勲二等参議式部卿大宰帥

生涯

霊亀2年716年8月正六位下で遣唐副使に任命。これが史料の初見。翌月従五位下に。養老元年(717年)入唐。翌年10月に帰国。養老3年(719年)正月には正五位下と見え、遣唐副使の功により正五位上となる。同年7月の按察使設置時に、常陸守として安房・上総・下総3国の按察使に任命。養老5年(721年)に四階進んで正四位上。

神亀元年(724年)4月式部卿持節大将軍に任命され出兵。蝦夷の反乱を平定し11月帰還。この功により翌年位階勲等を進められ従三位勲二等となる。神亀3年(726年)式部卿のまま知造難波宮事。後期難波宮造営の責任者となる。この後天平元年(729年)の長屋王の変時も式部卿として対応。天平4年(732年)には、参議・式部卿として西海道節度使となる。この時の詩が懐風藻にあり、高橋虫麻呂の見送る歌が万葉集に残る。なお、宝亀11年(780年)に、宇合の時の警固式を用いるようにとの命令が出ている。 天平9年737年8月5日参議式部卿兼大宰帥正三位で没。長男藤原広嗣反乱を起こすのはこれから3年後のこと。藤原式家の祖。

系譜

関連項目

参考文献

  • 金井清一「高橋虫麻呂と藤原宇合」(『国文学』23巻5号、1978年)。
  • 金井清一「藤原宇合年齢考」(『万葉詩史の論』、笠間書院、1984年)。
  • 木本好信「藤原宇合」(『藤原式家官人の考察』、高科書店、1998年)。
  • 利光三津夫「藤原宇合と大和長岡」(『法学研究』40巻4号、1967年)。