「モーゼス・フリート・ウォーカー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Teacups (会話 | 投稿記録)
新しいページ: ''''モーゼス・フリート・ウォーカー'''('''Moses Fleetwood Walker''', 1857年10月7日 - 1924年5月11日)は、1880年代の[[メ...'
 
Teacups (会話 | 投稿記録)
7行目: 7行目:
[[1883年]]に当時マイナーのノースウェスタン・リーグに参加していた[[トレド・ブルーストッキングス]]と契約し、チームの捕手を務めるようになった。同年8月10日、トレドは当時[[キャップ・アンソン]]が率いてたシンシナティ・レッドストッキングス(現カブス)とのエキシビション・ゲームの開催を行おうとしたのだが、その際ウォーカーが出場するトレドとの試合をアンソンが拒否しようとする出来事が起きている。ブルーストッキングスは[[1884年]]にアメリカン・アソシエーションに加盟、ウォーカーはこの年の5月1日の試合に出場、アフリカ系アメリカ人として初めてメジャーリーグに出場した選手となった。
[[1883年]]に当時マイナーのノースウェスタン・リーグに参加していた[[トレド・ブルーストッキングス]]と契約し、チームの捕手を務めるようになった。同年8月10日、トレドは当時[[キャップ・アンソン]]が率いてたシンシナティ・レッドストッキングス(現カブス)とのエキシビション・ゲームの開催を行おうとしたのだが、その際ウォーカーが出場するトレドとの試合をアンソンが拒否しようとする出来事が起きている。ブルーストッキングスは[[1884年]]にアメリカン・アソシエーションに加盟、ウォーカーはこの年の5月1日の試合に出場、アフリカ系アメリカ人として初めてメジャーリーグに出場した選手となった。


トレドの主力投手だった[[トニー・マレーン]]はウォーカーの能力を高く評価していたものの、「黒人は嫌いだから、彼のサインは見ずに好きな球を投げていた」と語っている。ウォーカーはこの年捕手として41試合に出場するが、7月に鎖骨を折る怪我をしてしまい、シーズン残りの試合出場できなかった。またこの年リーグ最多となる72の[[捕逸]](パスボール)を記録している。
トレドの主力投手だった[[トニー・マレーン]]はウォーカーの能力を高く評価していたものの、「黒人は嫌いだから、彼のサインは見ずに好きな球を投げていた」と語っている。ウォーカーはこの年捕手として41試合に出場するが、シーズン中に鎖骨を折る怪我をしてしまい、それ以降残りの試合出場できなかった。またこの年リーグ最多となる72の[[捕逸]](パスボール)を記録している。


所属していたブルーストッキングスが破綻した後、ウォーカーは翌1885年以降クリーブランドやウォーターバリーなどのマイナーの球団で野球をしていた。1887年にインターナショナルリーグで[[ジョージ・ストーヴィー]]と組んだバッテリーは、アメリカのプロ野球史上最初の「アフリカ系アメリカ人同士のバッテリー」としても知られている。ただ当時はメジャーリーグやマイナーリーグで徐々に「カラーライン」が作られ、アフリカ系アメリカ人の参加を制限するマイナーリーグリーグも増えていった。ウォーカーはそれに追われるように1889年までマイナーの球団を転々としながら野球選手として活動していた。
所属していたブルーストッキングスが破綻した後、ウォーカーは翌1885年以降クリーブランドやウォーターバリーなどのマイナーの球団で野球をしていた。1887年にインターナショナルリーグで[[ジョージ・ストーヴィー]]と組んだバッテリーは、アメリカのプロ野球史上最初の「アフリカ系アメリカ人同士のバッテリー」としても知られている。ただ当時はメジャーリーグやマイナーリーグで徐々に「カラーライン」が作られ、アフリカ系アメリカ人の参加を制限するマイナーリーグリーグも増えていった。ウォーカーはそれに追われるように1889年までマイナーの球団を転々としながら野球選手として活動していた。

2008年3月25日 (火) 13:23時点における版

モーゼス・フリート・ウォーカーMoses Fleetwood Walker, 1857年10月7日 - 1924年5月11日)は、1880年代のメジャーリーグベースボールの野球選手。主なポジションは捕手オハイオ州マウントプレザント生まれ。右投げ右打ち。弟のウェルデイ・ウォーカーとともに、現在メジャーリーグで最初にプレイしたアフリカ系アメリカ人とされている。

来歴・人物

球歴

黒人医師の息子として生まれる。1878年にオーバリン・カレッジに入学し1881年には学内の野球チームでプレイしていた。1882年にウォーカーはミシガン大学に転学、そこでも大学の野球チームに在籍していた。

1883年に当時マイナーのノースウェスタン・リーグに参加していたトレド・ブルーストッキングスと契約し、チームの捕手を務めるようになった。同年8月10日、トレドは当時キャップ・アンソンが率いてたシンシナティ・レッドストッキングス(現カブス)とのエキシビション・ゲームの開催を行おうとしたのだが、その際ウォーカーが出場するトレドとの試合をアンソンが拒否しようとする出来事が起きている。ブルーストッキングスは1884年にアメリカン・アソシエーションに加盟、ウォーカーはこの年の5月1日の試合に出場、アフリカ系アメリカ人として初めてメジャーリーグに出場した選手となった。

トレドの主力投手だったトニー・マレーンはウォーカーの能力を高く評価していたものの、「黒人は嫌いだから、彼のサインは見ずに好きな球を投げていた」と語っている。ウォーカーはこの年捕手として41試合に出場するが、シーズン中に鎖骨を折る怪我をしてしまい、それ以降残りの試合に出場できなかった。またこの年リーグ最多となる72の捕逸(パスボール)を記録している。

所属していたブルーストッキングスが破綻した後、ウォーカーは翌1885年以降クリーブランドやウォーターバリーなどのマイナーの球団で野球をしていた。1887年にインターナショナルリーグでジョージ・ストーヴィーと組んだバッテリーは、アメリカのプロ野球史上最初の「アフリカ系アメリカ人同士のバッテリー」としても知られている。ただ当時はメジャーリーグやマイナーリーグで徐々に「カラーライン」が作られ、アフリカ系アメリカ人の参加を制限するマイナーリーグリーグも増えていった。ウォーカーはそれに追われるように1889年までマイナーの球団を転々としながら野球選手として活動していた。

引退後

野球選手を引退した後の1891年4月、ウォーカーはシラキュースで白人の暴漢グループに襲われ、反撃した際グループの一人に致命傷を負わせてしまう。逮捕されたウォーカーは正当防衛を主張、6月3日の評決で無罪となったが、評決の日に裁判所は人でごったがえし、無罪の決定に歓喜の声を上げるものも多かったそうである。その後ウォーカーは1908年に"Our Home Colony"という題の冊子を出版する。その中身は黒人のアメリカからの移住を勧める内容であったという。1924年にオハイオ州クリーブランドで死去。

年度別打撃成績
































O
P
S
1884 TOL 42 152 23 40 2 3 0 0 0 - 8 - .263 .325 .316 48 - - - 6 0 0.641
通算 1年 42 152 23 40 2 3 0 0 0 - 8 - .263 .325 .316 48 - - - 6 0 0.641

関連項目

出典・外部リンク