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2008年1月11日 (金) 19:21時点における版
李 元昊(り げんこう、1003年 - 1048年)は、中国の西夏王朝の初代皇帝。即位後の名は景宗(けいそう、在位1038年 - 1048年)。
タングートの族長の家系の出身。父は西平王の地位にあった人物である。李元昊は若い頃から智勇に優れ、教養も豊かな人物であった。1032年、父の死により西平王の地位を継ぎ、1038年までにタングートの諸部族を武力によって併合したことを背景にして国号を大夏と号し、皇帝として即位したのである。しかし北宋では西夏と呼んだと言われている。
李元昊は現在の寧夏回族自治区銀川の興慶府を首都と定め、宋に倣った官位制度の整備・学校の創設による教育の普及・軍備増強など、国家の基盤固めに尽力した。そして宋と貿易の利権などをめぐって争い、苦戦しながらもこれに勝利し、宋に名目上は臣従するという形をとりながら、宋が西夏に対して絹や茶などの貢物を連年納めさせるという条約を結ぶことに成功した。また、遼に対抗するため、オルドス地方やゴビ砂漠などに対して勢力を拡大した。晩年には西夏文字の形成にも尽力し、西夏の文化向上に努めた。
しかし、晩年は酒に溺れ、西夏を乱れさせてしまう。皇后の野利氏、太子の寧林格が廃され、その寧林格によって1048年に殺害される。享年46。なお寧林格も父殺しの罪で処刑され、後を毅宗(李諒祚)が継いだ。
内政・外征共に大きな成功を収めた、西夏の創始者でもあれば、同王朝随一の名君でもある。
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