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'''篠脇城'''(しのわきじょう)は、[[岐阜県]][[郡上市]]にかつて存在した[[山城]]。[[東氏]]が8代・約230年間にわたって居城とした。栗巣川左岸の[[篠脇山]]山頂にあり、北は牛道郷(現・郡上市[[白鳥町 (岐阜県)|白鳥町]])、北東は寒水(現・同市[[明宝村]])、東は小駄良(現・同市[[八幡町 (岐阜県)|八幡町]])にそれぞれ通じ、西には[[長良川]]がある要衝だった。現在は県指定の[[史跡]]。


==歴史==
==歴史==

2007年11月8日 (木) 13:33時点における版

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篠脇城
岐阜県
別名 特になし
城郭構造 山城
築城主 東氏村
築城年 鎌倉時代末(1310年頃)
主な城主 東氏
廃城年 1541年
遺構 礎石
指定文化財 なし
位置 北緯35度47分73.9秒 東経136度55分47.0秒 / 北緯35.803861度 東経136.929722度 / 35.803861; 136.929722 座標: 緯度の秒が60以上です
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篠脇城(しのわきじょう)は、岐阜県郡上市にかつて存在した山城東氏が8代・約230年間にわたって居城とした。栗巣川左岸の篠脇山山頂にあり、北は牛道郷(現・郡上市白鳥町)、北東は寒水(現・同市明宝村)、東は小駄良(現・同市八幡町)にそれぞれ通じ、西には長良川がある要衝だった。現在は県指定の史跡

歴史

『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の四代・東氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされる。1468年応仁2年)には斎藤妙椿に攻められて落城したが、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはある。1471年文明3年)から1477年(文明9年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けている。1540年天文9年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・東常慶が撃退している。翌1541年に常慶は八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となった。後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としている。

構造

年不詳の『篠脇城跡略図』によると、麓の東西に土井、中央に門口、東方に矢場、西方には馬場があったとされる。土井囲の中には東氏の館があった。現在は山麓の登り口に表門跡とされる礎石がある。また、山頂の三段の平地のうち最上段が本丸跡と推定される。城郭を囲む放射線状の30本余の竪堀がこの城の特徴で、の目堀ともよばれる。ほとんどは深さ2~3m、底幅2m、長さ10~40mで、その内2本が山麓まで達する。二の丸の西北に湧水があり、城の飲料水だったと考えられる。

所在地

岐阜県郡上市大和町牧

アクセス

関連項目

参考文献

  • 日本歴史地名大系(オンライン版) 小学館