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昭和初年、[[大阪]]に都落ちした際、記者時代の[[真杉静枝]]と恋に落ちて情死を図ったが未遂に終わる。その後東京に戻り、[[小島政二郎]]に入門して小説を修業。[[1933年]]に'''蓉'''から'''容'''に改名。[[1941年]]、[[三遊亭圓馬]]の夫人の紹介で、[[舞踏家]]の[[花園歌子]]と結婚。[[太平洋戦争]]の直前、雑誌『日の出』に発表した『円太郎馬車』が[[古川ロッパ]]の主演により東京有楽座で上演される。

2007年11月2日 (金) 09:55時点における版

正岡 容(まさおか いるる、1904年12月20日 - 1958年12月7日)は、作家落語寄席研究家。6代目菊五郎の座付作者ともいわれた。作家としては、永井荷風岡本綺堂吉井勇等の影響を受けている。前名は平井蓉。

門下に小沢昭一大西信行永井啓夫3代目桂米朝都筑道夫加藤武小島貞二らがいる。

生涯

東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)生まれ。京華中学校在学中、短歌吉井勇戯曲久保田万太郎川柳阪井久良伎(くらき)に学び、それぞれの弟子と称する。1922年、歌集『新堀端』、小説紀行集『東海道宿場しぐれ』を刊行。1923年日本大学入学。同年、19才で発表した小説『江戸再来記』が芥川龍之介に絶賛されたのを機に、文筆活動に入り、大学は中退。

昭和初年、大阪に都落ちした際、記者時代の真杉静枝と恋に落ちて情死を図ったが未遂に終わる。その後東京に戻り、小島政二郎に入門して小説を修業。1933年からに改名。1941年三遊亭圓馬の夫人の紹介で、舞踏家花園歌子と結婚。太平洋戦争の直前、雑誌『日の出』に発表した『円太郎馬車』が古川ロッパの主演により東京有楽座で上演される。

1945年東京大空襲により自宅が全焼し、その年の11月、友人の川柳作家・阪井久良伎の紹介により市川市に移住、1953年10月まで住んだ。

また、落語を3代目三遊亭圓馬に師事し、多くの演目を物にしており、高座にも上がっている。圓馬が1916年に大阪へ復帰した際には、共に来阪している。

喜怒哀楽が激しく賑やかな人柄からジャズという綽名があった。酒癖の悪さでも知られ、戦後、雑誌の座談会の帰途、安藤鶴夫に暴力をふるったこともある。

頚動脈破裂のため慶應義塾大学病院で死去。死の数日前に詠んだ辞世の歌に「打ち出しの太鼓聞えぬ真打はまだ二三席やりたけれども」。