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スターリンの死後は、一層、名目上の国家元首として存在感を薄くしていたが、その地位を[[クリメント・ウォロシーロフ]][[ソビエト連邦元帥|元帥]]に取って代わられた。最高会議幹部会議長を退いたシュヴェルニクは、古巣である全ソ労組中央評議会議長に選出された。[[1953年]][[フルシチョフ]]によってソ連共産党統制委員会議長に就任する。フルシチョフは非スターリン化の一環として、シュヴェルニクを[[大粛清]]の犠牲者に対する名誉回復を担当させた。このため、この時期統制委員会は「シュヴェルニク委員会」と呼ばれた。[[1957年]]党幹部会員に復帰し、[[1966年]]に引退するまで正会員の地位を保った。
スターリンの死後は、一層、名目上の国家元首として存在感を薄くしていたが、その地位を[[クリメント・ウォロシーロフ]][[ソビエト連邦元帥|元帥]]に取って代わられた。最高会議幹部会議長を退いたシュヴェルニクは、古巣である全ソ労組中央評議会議長に選出された。[[1953年]][[ニキータ・フルシチョフ|フルシチョフ]]によってソ連共産党統制委員会議長に就任する。フルシチョフは非スターリン化の一環として、シュヴェルニクを[[大粛清]]の犠牲者に対する名誉回復を担当させた。このため、この時期統制委員会は「シュヴェルニク委員会」と呼ばれた。[[1957年]]党幹部会員に復帰し、[[1966年]]に引退するまで正会員の地位を保った。


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2007年1月16日 (火) 11:10時点における版

ファイル:Shvernik nm.jpg
ニコライ・シュヴェルニク

ニコライ・シュヴェルニクНикола́й Миха́йлович Шве́рникNikolai Mikhailovich Shvernikユリウス暦1888年5月7日グレゴリオ暦5月19日) - 1970年12月24日)は、ソビエト連邦政治家最高会議幹部会議長(在任期間は、1946年5月19日から1953年5月15日まで)。

1905年ボリシェヴィキに入党する。1924年ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民委員に就任し、翌1925年には党中央委員に選出された。1927年ウラル地方の党書記に降格されるが、スターリン五カ年計画に基づく重工業化に対する熱心な唱道者であったため、政治的に復権を果たした。1929年モスクワに戻り冶金労働者組合議長に就任し、共産党組織局員兼書記に選出された。1930年全ソ労組中央評議会第一書記に就任し、1944年までこの地位にいた。1939年にはソ連共産党政治局員候補に選出された。

第二次世界大戦中、シュヴェルニクは主にヨーロッパ・ロシアの産業をナチス・ドイツの侵攻からウラル以東に疎開させる役割を担った。戦後の1946年ミハイル・カリーニンの跡を襲いソ連の国家元首である最高会議幹部会議長に選出された。1952年党幹部会員(政治局員)に昇格するが、翌1953年スターリンの死後、幹部会員候補に降格されている。

スターリンの死後は、一層、名目上の国家元首として存在感を薄くしていたが、その地位をクリメント・ウォロシーロフ元帥に取って代わられた。最高会議幹部会議長を退いたシュヴェルニクは、古巣である全ソ労組中央評議会議長に選出された。1953年フルシチョフによってソ連共産党統制委員会議長に就任する。フルシチョフは非スターリン化の一環として、シュヴェルニクを大粛清の犠牲者に対する名誉回復を担当させた。このため、この時期統制委員会は「シュヴェルニク委員会」と呼ばれた。1957年党幹部会員に復帰し、1966年に引退するまで正会員の地位を保った。

先代
ミハイル・カリーニン
ソ連最高会議幹部会議長
1946年-1953年
次代
クリメント・ウォロシーロフ