松木侠
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松木 侠(まつき たもつ、1898年〈明治31年〉3月9日 - 1962年〈昭和37年〉7月10日)は、日本の政治家、弁護士、旧鶴岡市第8代市長。栄典は正五位・勲三等・旭日中綬章。哲学者・木田元の伯父。
略歴
[編集]- 1898年(明治31年)3月9日 - 山形県西田川郡大宝寺村(現・鶴岡市)に、官吏・松木清直の3男として生れる。
- 1916年(大正5年) - 荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業
- 第二高等学校を経る。
- 1922年(大正11年) - 東京帝国大学法学部ドイツ法律科卒業
- 5月 - 南満州鉄道入社
- 1931年(昭和6年)8月 - 上海事務所転任(陸軍省事務嘱託上海駐在員)
- 1932年(昭和7年)4月26日 - 満州国法制局長就任
- 1934年(昭和9年)7月 - 満州に戻る。
- 1937年(昭和12年)5月6日 - 満州国総務庁法制処長就任
- 1938年(昭和13年)3月1日 - 同職退任、満州国参議府秘書局長就任
- 1940年(昭和15年)5月16日 - 同職退任、満州国総務庁次長就任
- 1943年(昭和18年)6月19日 - 同職退任、満州国審計局長官就任
- 1944年(昭和19年)10月2日 - 同職退任、大同学院院長就任
- 1945年(昭和20年) - 終戦により日本に帰国
- 1946年(昭和21年) - 公職追放[1][2]、東京都にて弁護士事務所開業
- 1951年(昭和26年) - 追放解除[3]
- 1954年(昭和29年) - 国井重典前鶴岡市長の死去に伴い鶴岡市長に選出
- 1955年(昭和30年) - 土佐内佐吉(土佐内吉治・元国鉄スワローズ投手の父)に協力して鶴岡の中学校野球大会を創設
- 1958年(昭和33年)1月26日 - 市長選挙2回目当選
- 1962年(昭和37年)7月10日 - 同職在任中に死去。正五位 叙位 旭日中綬章 受章。鶴岡の福寿寺に墓がある。
- 1962年(昭和37年)7月16日 - 特旨を以て位記を追賜。
栄典・授章・授賞
[編集]- 1937年(昭和12年)2月23日 - 勲四等旭日小綬章・昭和六年乃至九年事変従軍記章[4]
著作物
[編集]脚注
[編集]参考資料
[編集]- 『庄内人名辞典』 大瀬欽哉(代表編者) 致道博物館内「庄内人名辞典刊行会」(発行)
- 満州国行政官事典 - ウェイバックマシン(2006年2月10日アーカイブ分)
- 『官報』1962年7月18日 本紙 10673 叙任及辞令
公職 | ||
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先代 国井重典 |
鶴岡市長 第8代:1954年 - 1962年 |
次代 足達兼一郎 |