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有馬山龍右エ門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
有馬山 龍右エ門
基礎情報
四股名 鳴尾潟善太→鳴尾潟善太郎→鼓ヶ滝調右衛門→小野川嘉平治→有馬山滝右衛門→有馬山龍右エ門→岩見潟丈右衛門
生年月日 天明5年(1785年
没年月日 天保6年2月8日1835年3月6日
出身 摂津国武庫郡(現兵庫県西宮市上田町)
身長 182cm
体重 135kg
BMI 40.76
所属部屋 小野川(大坂)→境川→勝ノ浦
成績
現在の番付 引退
最高位 大関
生涯戦歴 95勝45敗8分6預12無41休
幕内戦歴 84勝29敗4分4預11無41休
優勝 優勝相当成績4回
データ
初土俵 1808年10月場所
入幕 1813年11月場所
引退 1824年1月場所
備考
2014年4月5日現在

有馬山 龍右エ門(ありまやま りゅうえもん、天明5年(1785年) - 天保6年2月8日1835年3月6日))は、摂津国武庫郡(現兵庫県西宮市上田町)出身の大相撲力士。身長182センチ、体重135キロであったといわれている。最高位は大関

来歴

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はじめは大坂相撲小野川の弟子となって、鳴尾潟善太(なるおがた ぜんた)の名で取っていた。文化5年(1808年)10月江戸に下り、勝ノ浦門人として二段目に付け出される。文化6年(1809年)2月に善太を善太郎に改名、文化7年(1810年)2月に鼓ヶ滝調右衛門(つつみがたき ちょうえもん)に改名。文化10年(1813年)11月西前頭8枚目で入幕する。文政元年(1818年)10月関脇に上る。この場所の6日目に小野川嘉平治(おのがわ かへいじ)に改める。しかし小野川を抱えていた久留米藩主の有馬家と、横綱免許を授ける吉田司家から、小野川名義は横綱免許であるという強い抗議を受ける。文政2年(1819年)3月、雲州松江藩のお抱えから南部藩のお抱えに転じ、有馬山滝右衛門と改名。当時その事件を詠んで、「小野川になられぬわけが有馬山」という川柳が流行ったという。有馬山という名前は、郷里の有馬温泉付近の山に因んだという理由だが、有馬家への当てつけと噂された[1]

文政3年(1820年)10月有馬山龍右衛門(ありまやま りゅうえもん)に改名。文政4年(1821年)10月大関玉垣の欠場をうめ西大関となり、2場所大関をつとめるが、文政5年(1822年)10月に関脇に退く。このとき、南部藩ゆかりの岩見潟丈右衛門(いわみがた じょうえもん)に改名。文政7年(1824年)正月引退する。優勝相当同点成績は4度あった。引退後、天保4年(1833年)7月に小野川嘉平治を襲名するが、年寄にならずして天保6年2月8日1835年3月6日)に死去する[2]。享年51。

主な戦績

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  • 通算幕内成績:84勝29敗4分4預11無41休 勝率.743
  • 幕内在位:18場所
  • 三役在位:12場所(関脇9場所、小結1場所)
  • 大関在位:2場所
  • 優勝相当成績:4回

脚注

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  1. ^ 『古今大相撲力士事典』景山忠弘・小池謙一 1989年10月 国書刊行会 P36
  2. ^ 『古今大相撲力士事典』景山忠弘・小池謙一 1989年10月 国書刊行会 P37

参考文献

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  • 『古今大相撲力士事典』景山忠弘・小池謙一 1989年10月国書刊行会

関連項目

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