コンテンツにスキップ

戸田氏房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
戸田氏房
時代 江戸時代中期
生誕 宝永元年(1704年
死没 宝暦9年10月23日1759年12月12日
改名 豊五郎(幼名)、氏房
墓所 東京都文京区向丘の蓮光寺
官位 従五位下、淡路守、右近衛将監
美濃大垣新田藩主(三河畑村藩主)
氏族 戸田氏
父母 父:戸田氏定、母:於類
養父:戸田氏成
兄弟 氏長氏房定浩
本多助芳の娘
氏之、養女:(戸田定浩の娘、稲葉正明室)
テンプレートを表示

戸田 氏房(とだ うじふさ)は、江戸時代中期の大名。美濃大垣新田藩三河畑村藩)の第2代藩主。大垣藩戸田家分家2代。

生涯

[編集]

宝永元年(1704年)、美濃大垣藩の第4代藩主・戸田氏定の五男として生まれる。母は安田藤九郎の娘・於類。享保4年(1719年)に大垣藩新田藩の初代藩主・氏成が死去したため、家督を継いだ。

三河国、美濃国両国内で1万石を領し、従五位下、右近衛将監に叙位・任官し、三河国渥美郡畑村に居館を営んだ。資性温雅寡言、体躯雄偉にして古将の風ありといい、享保10年(1725年)7月21日、江戸城内にて松本藩主・水野忠恆長州藩支藩の長府藩世子・毛利師就に斬りかかったところ、師就は不意をつかれて負傷したものの、腰刀で忠恆の脇差を落とし、そこに通りかかった氏房が忠恆の腰刀を奪い、速やかに狼藉を鎮定したという。ちなみにこの事件は忠恆と師就は面識がなく、自らの不行跡が世に知れ渡って、所領を没収され、それが毛利師就に下賜されると聞いたことから、斬りつけたとあらぬ妄言を述べたことから、忠恆の妄想による乱心として改易、本人は叔父である水野忠穀の許に蟄居させられた。

その後、氏房は大番頭、奏者番、西丸若年寄を歴任する。宝暦9年(1759年)10月23日に死去した。享年56。跡を長男の氏之が継いだ。

系譜

[編集]

父母

正室

子女

養子女