成島治平
成島治平 なるしま じへい | |
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甲府市『甲府市水道拡張誌』、1938年 | |
生年月日 | 1865年4月15日 |
出生地 |
日本 甲斐国巨摩郡下条南割村 (現・山梨県韮崎市) |
没年月日 | 1940年6月12日(75歳没) |
死没地 | 日本 山梨県甲府市 |
出身校 | 東京薬学専門学校 |
前職 | 実業家 |
在任期間 | 1927年10月8日 - 1931年8月8日 |
成島 治平(なるしま じへい、1865年4月15日〈慶応元年3月20日[1]〉 - 1940年〈昭和15年〉6月12日[2])は、日本の政治家。甲府市長(官選第14代)。
略歴
[編集]甲斐国巨摩郡下条南割村(現在の山梨県韮崎市下条南割)に、千野直一の二男として生まれる。1887年(明治20年)4月に成島信順の養子となる[1]。東京薬学学校に学び薬剤師となり、先代の遺業である薬種商「木綿屋」を甲府市錦町で営み、1902年(明治35年)以降、甲府市学務委員、水道調査委員、市区改正調査委員などを務めている。1909年(明治42年)には甲府商業会議所議員に当選し、1917年(大正6年)4月18日から1921年(大正10年)5月21日まで同会議所副会頭を歴任した。また、1910年(明治43年)1月16日から6月1日まで第十銀行監査役を務めている。
1912年(明治45年)3月27日から4月4日には皇太子嘉仁(大正天皇)の山梨県行啓が行われている[3]。嘉仁は日程二日目の3月28日に龍岡村(韮崎市龍岡町下条南割)において演習を視察し、同村の高森山(唐土神社)を訪れた[4]。嘉仁は侍医の土屋岩保が高森山所有者の千野家と縁戚にあることを知り、土屋に時間を与えて千野家を訪れさせた。土屋は千野家において成島が皇太子行啓に際して和歌を詠んでいたことを知り、嘉仁に伝えると嘉仁は成島について尋ねたという[5]。高森山には同年4月28日に成島の撰による大正天皇駐駕記念碑が建てられている[4]。
1926年(大正15年)6月の市制改正により、市長が市会の選挙によって決定されることとなり、1927年(昭和2年)10月8日の甲府市会において満場一致で市長に選ばれ、同日から1931年(昭和6年)8月8日まで第14代甲府市長を務めている[6][7]。
1940年6月12日13時、甲府市の自宅で死去した[2]。
脚注
[編集]- ^ a b 『人事興信録 3版(明44.4刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部―の之部 848コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 『日本薬報 第15年(12) 18コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 小畑(2014)、P.22(39)
- ^ a b 小畑(2014)、p.34(27)
- ^ 小畑(2014)、p.35(26)
- ^ 『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み 第2巻 163コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 『甲府市史 別編 4 (年表・索引) 100コマ』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
[編集]- 『第二版 山梨人事興信録』昭和3年(1928年)。
- 『山梨百科事典 創刊120周年記念版』山梨日日新聞社編 平成4年(1992年)。
- 小畑茂雄「明治45年3~4月の皇太子(大正天皇)山梨行啓について(一)」『山梨県立博物館 研究紀要 第8集』山梨県立博物館、2014年。