延信王
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時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 延信王(皇族時代) → 源 延信 |
官位 | 従四位上、神祇伯 |
主君 | 後一条天皇 → 後朱雀天皇 → 後冷泉天皇 |
氏族 | 源朝臣(花山源氏? → 冷泉源氏?) |
父母 | 父:清仁親王、母:源頼房の娘 |
兄弟 | 延信、延清王、兼文王、永子女王、信子女王、寛意の母 |
妻 | 四条宮筑前(高階成順(乗蓮)の娘) |
子 | 康資王 |
特記 事項 | 白川伯王家の始祖。 |
延信王(のぶざねおう、生没年不詳)は、平安時代中期の皇族・貴族。花山天皇の孫。弾正尹・清仁親王の子。白川伯王家の祖。官位は従四位上・神祇伯。
経歴
[編集]後一条朝の万寿2年(1025年)正月に二世王の蔭位により従四位下に直叙され、同年12月に父・清仁親王の奏請により源朝臣姓を与えられて臣籍降下している。正月の叙位に関して、「安和御後」つまり冷泉天皇の皇孫として叙位を受けていることから、源朝臣賜姓も「安和御後」としてのものと想定されるとして、延信を花山源氏ではなく冷泉源氏とする見方がある[1]。翌万寿3年(1026年)侍従に任官する。
その後、従四位上・弾正大弼に叙任され、後冷泉朝初頭の寛徳3年(1045年)神祇伯に任ぜられた。
子息の康資王も神祇伯の官職を継承する。古来より、神祇伯は中臣氏の氏人が務める例が多かったが、平安時代末期の永万元年(1165年)延信の曾孫・顕広王が任ぜられて以降、この家系が世襲するようになった。そこで、この家系を伯家(白川伯王家)と呼ぶようになり、延信王はその祖と仰がれた[2]。
官歴
[編集]- 万寿2年(1025年) 正月6日:従四位下(安和御後)[3]。12月29日:臣籍降下(源朝臣)[4]
- 万寿3年(1026年) 4月27日:侍従[4]
- 時期不詳:従四位上。弾正大弼[5]
- 寛徳3年(1045年) 2月:神祇伯[4]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年
- 赤坂恒明「冷泉源氏・花山王氏考 : 伯家成立前史」『埼玉学園大学紀要. 人間学部篇』第15巻、埼玉学園大学、2015年12月、253-268頁、ISSN 1347-0515、CRID 1050001337998287104。