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広岡宇一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
広岡宇一郎
ひろおか ういちろう
広岡宇一郎(1867-1941)
生年月日 1867年慶応3年)7月
出生地 淡路国三原郡市村(現兵庫県南あわじ市
没年月日 1941年昭和16年)4月8日
出身校 日本法律学校日本大学の前身)
前職 弁護士
所属政党 立憲政友会政友本党→立憲政友会

内閣 田中義一内閣
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広岡 宇一郎(ひろおか ういちろう、慶応3年7月8日[1]1867年8月7日) - 昭和16年(1941年4月8日)は、日本の衆議院議員立憲政友会政友本党→立憲政友会)、弁護士

経歴

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淡路国三原郡市村(現在の兵庫県南あわじ市)生まれ[2]。藤九郎の長男[2]

22歳の時、自由党に入り、機関紙の記者となった。新聞紙条例集会条例違反のかどで弾圧を受け、6回にわたって拘束された。1891年(明治24年)、明石町で官民の対立が起きると、5千人の民衆を率いて6百名の巡査と衝突し、兇徒嘯集罪で1年2ヶ月の間獄中にあった。

その後東京に出て、自由党の活動に従事しつつ、日本法律学校(現在の日本大学)で学んだ。卒業後に弁護士試験に合格し、東京で弁護士を開業した。

1915年大正4年)、第12回衆議院議員総選挙に立憲政友会から出馬し、当選した。政友会の幹事長を務め、1921年(大正10年)には、普通選挙を唱えていた憲政会総裁加藤高明が、普通選挙に反対していた船成金内田信也から献金を受けていた事実を追及している(珍品五個事件)[3]

1924年(大正13年)に政友会が分裂すると政友本党に属したが、1927年(昭和2年)に憲政会との合同に反対して、政友会に復帰した[4]

復帰後は、田中義一内閣逓信政務次官を務めた。

脚注

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  1. ^ 漆崎多四郎『貴衆両院議員名鑑』、1919年、p.20。
  2. ^ a b 『伝家之宝典 自治団体之沿革 兵庫県之部』代議士録27頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年3月30日閲覧。
  3. ^ 『大阪朝日新聞』1921年3月16日付広岡宇一郎氏の加藤総裁への公開状神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫)
  4. ^ 『大阪朝日新聞』1927年5月10日付[1] 神戸大学デジタルアーカイブ

参考文献

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  • 『明治弁護士列伝』周弘社、1898年。 
  • 篠田皇民著『伝家之宝典 自治団体之沿革 兵庫県之部』東京都民新聞社地方自治調査会、1932年。